わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)148

 

 

少し前に転職フェアに参加した。どんな仕事があるのか、どんな企業があるのか、勉強になった。会場に入った途端、サークルの勧誘のようにわっと人が群がってきたのはびっくりしたが。

事前にある程度どの企業の話が聞きたいか、ピックアップしておいた。

興味のない職種の話も聞いてみた。結果、「いいな」「面白そう」と思ったのは、事前に目星をつけていた企業だった。

ただ、今の収入と同じ程度のものとなると、厳しいかもしれない。資格があってこそなのだなと思う。

 

それでも、わたしは「ただのわたし」として働きたいと思う。資格は付属物にすぎない。

資格に固執しているのは、なぜだろう。これまでずっとその資格があったからやってこれたとは思う。でも、捨てたいとも思っている。

自分の中で折り合いがつかない。

資格を得て働き始めてからずっと、それは自分ではないもののように感じている。

実際そうなのだろうと思う。

 

 

これまで培った経験や知識に助けられてここまで来た。それはありがたいし、恵まれていると思う。今も、それを活かして働くことができている。

現在の仕事は、資格の有無に関係なく自分の能力を遺憾なく発揮できていると自分では思っている。

 

 

折り合いがつかないのは、アイデンティティに関わっているからなのだろう。誰がなんと言おうと、それはわたしじゃないんだ。でも、その理由がわからない。見つけられない。

とても個人的な問題だ。ジェンダーに関することと似ているよう。

 

 

理由が見つからないなら、それでいいとも思う。見つけようとするから見つからないのかもしれないね。

わたしにとって大切なのは、「ただのわたし」であるかどうか。

わたしが違うというなら、わたしには違うもの。うん。もうそれでOKじゃん。折り合いがつかないならそれでOK。そういうものなのでしょう。

 

 

資格は生き延びるための手段。だからこれまでやってこれた。今度は違う手段を使いたいだけだ。違う手段での経験を積んでいけばいい。

もうずっとそれで足掻いている。

わたしはきっとその資格に飲み込まれていて、本来の自分を見失うのが怖いのだと思う。

 

 

いつだってわたしは、本来の自分とかけ離れてしまうことがイヤなのだ。資格がわたしをそうさせるなら、捨てたいと思うのは当然で。

けど、その資格を返納できるのは、死亡か失踪したときのみ。自らの意思では返納できず、一生ついてまわるのかと思うとうんざりする。ならば隅でほこりをかぶらせておけばいい。

 

 

 

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)147

 

 

4月だ。毎日だいたい同じような時間に家を出るのに、月曜日の朝は1週間の中でも人が多いように思う。年度初めは特にそうかもしれない。

年度初めかぁ。全く以て実感がなく、ふとした時に「そうだった」と思う程度である。

新人が入ってくるような浮足立つことがないのも一つかもしれない。

新しいシステムが稼働を始めたけれど、だからといっていつも以上に気を張るようなこともなく。わたしは初めから関わっていたからそう感じるのかもしれないが、ひとつの流れの中にあるだけ。

 

 

わたしは、自分の頭の中で誰かに色々と何かを言わせていることがある。実在する人物の時もあるし、架空の時もある。

はたとそれに気づいて、なぜ自分はそんなことをするのだろう?と考える。

自分の中で相手に好き勝手に言わせて、何がしたいのか?

相手を貶めて自分を安心させたいのか、自分を貶めて憐れみたいのか。

それ、する必要ある?と問いかける。

 

 

面と向かって言えないことを思い切りぶつけていることもあるから、溜め込んでいるものを吐き出させる作用があるのかもしれない。

そういう時はノートに書いて、状況を俯瞰してみる。

「自分の期待する結果じゃなかった」がだいたいの原因と思う。

 

 

「自分の期待する結果じゃなかった」は、自分のコントロールが及ばない、どうにもならないことだ。

じゃあ、その結果を受けて自分はどうするか?、だ。

どうにもならないことにいつまでもしがみついているのは、不毛だ。

わたしは何ができる?

 

 

根付いてしまった感情は、そのまま受け容れる。「イヤだ」と感じているならそれでOK。自分の中で処理する。ゆるす。とにかくその感情を認めてゆるす。

普段あまり感情が揺れないから、一旦根付くととても頑固。それだけ嫌な想いをしたのだ、きっと。うん、納得。

納得できれば、次へと進める。

 

 

今日は気温が上がりそう。窓を開けて過ごせるといいな。厚手の服を洗濯したい。

昨日作ったジャムをパンに塗って食べよう。日用品を買いに行くついでに、服を少し見てこよう。

旅行の計画を練って、小説を読んで自分の時間を満喫しよう。

お腹空いてきた。昨日は昼夜兼用のご飯で、昼には遅く、夜には早い時間に食べたからとても空腹。

この前の健康診断でコレステロールがちょっと高めだったから、食事に気をつけないと。

間食のせいだと思う。チーズケーキとかたくさん食べた。

 

 

色々あるけど、こうしてみると、概ね満足している。幸せかどうかはわからないけど、満ち足りている、と思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)146

 

 

先週の金曜日午前中は嵐だった。強風と雨でずいぶんと濡れてしまった。余力があればお遣いに行こうと思ったが、荒天の中を無理して行くことはないと考え直した。

午後、ふと窓の外を見れば雲のない青空が広がっていた。

昨日・今日と春をすっ飛ばした陽気だ。お陰でエアコンのフィルターやサーキュレーター、加湿器の手入れをすることができた。ずいぶんと汚れていたので、すっきりさせることができて何よりである。

 

 

今日で3月はおしまい。明日から4月。何とか新しいシステムも稼働できそうである。細かいところは動かしながらFixしていく。

雇用契約が更新されていないが、引き続きで良いのだろうか?

ヘラっとしながら後任者が見つからないと言われた。うん、知ってる。面接手伝ったのわたしだし。

もう少し道を均してからじゃないと、引き継ぎも難しいかなと感じているし、丁度いいと思っている。

 

それより、その態度が気になった。相手にとってわたしの価値はその程度なのだな、と。

知ってたけど。再確認した。従業員に頭を下げるなんて、当人にはありえないことなのだろう。むしろこちらが相手を「その程度」なのだなと評価した。

 

 

何をしても不満を漏らす人はいるし、わたしは自分のできることを見つけて粛々と進めるだけ。誰かの行いに腹を立てるなら、違うことにエネルギーを使いたいかな。

先日、注文したものが届かないから納期を問い合わせたら、先方から発注が漏れていたと連絡があった。これまでのことを鑑みると、そうかなーと予想はついていたので、感情は揺らがない。

それに、そういう時は腹を立てるより、そのまま状況を受け容れた方がスムーズだったりする。件のものは、4月以降の納期と案内されたが、結果として数日で納品された。

寛容なのではなく、興味・関心が薄いだけだと思う。「いつものことね」と。

 

 

「呪いのことば」なるモノがある。わたしにすれば「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」だろう。ネットで検索すると「毒親」に引っかかる。

毒親」にしろ他の言葉にしろ、それらは今の自分を正当化するための免罪符のように見える。それがないと自分の立ち位置、存在が不安定になるのだろう。

「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」は親の免罪符(都合)だ。それを子どもに押し付けているだけ。子どもをコントロールするためのことば。

子どもにとっては、気持ちや意思を蔑ろにされ、思考や行動を縛る「呪い」。

 

 

「我慢しなさい」と言われて育ったのだから、我慢強いのは当然なのかもしれない。とはいえ、我慢強いとは思っていないが。

今、こうしてこのことを綴るのは、自分の中のわだかまりを精算しているのかもしれない。

「呪いのことば」は今のわたしには無効である。けど、それがあったから今の為人が作られたとも思う。

 

 

 

 

 

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)145

 

 

ハーブティを買ってきた。1日1杯でも口にすれば、カラダのこわばりというか、緊張がいくらか緩んでいるように感じる。

うん、少々値が張っても自分のケアという点では必要なアイテムだと再認識する。だからといってガバガバと飲むとあっという間になくなってしまうので、大事に大事に飲もうと思う。

 

 

ふとした時に新しいスマホタブレットが欲しくなる。わたしの財力では欲しいと思ってホイッと出せる値段ではないので、本当に必要か?を自分に問いかける。

なぜそれが欲しいと思うのか?ただ新しいものを手にして自分を満たしたいだけで、通話ができないとか電源がおかしいとか、今すぐ買い替える必要があるだろうか?と。

 

 

バッテリーは多少消耗しているが、今すぐにというものではない。タブレットは5年以上使っているが今やネットで小説を読むだけのツールだ。慌てるものではない。

スマホや服などはこうして考えることができるけど、食べ物はちょっと違う。好きなものが並んでいると今がチャンスとばかりに購入してしまう。

我慢しようとすればするほど。そういう時はなるべく逆らわずに買ってくる。その方がストレスが少ない。

 

 

この時期になって、少しずつ仕事の荷が下ろせるようになってきたと思う。わたしが引き受けていた仕事の一部を引き継げる人が現れた。

また、自分が関わらなくても稼働できつつあるシステム。少しずつ手放せてきている。

ありがたいなぁと思う。手放せるものがあるってありがたい。少しずつ軽くなっていける。

お陰で次のことへ目を向けることができるようになってきた。

名残惜しくもある。けど、次へと進むと決めたから撤回はしない。

 

 

いくつも小説を読んできたけど、わたしが好きな登場人物たちは似通っている。芯があって、自分にとって何が大切か知っていて、どんなときもそれを基準にして行動する人が好きだ。

時に打ちのめされて辛い思いをしても、必ず立ち上がる。そういう姿に魅力を感じる。わたしもそう在りたいといつも思う。

 

 

「レーエンデ国物語」という小説もそうだった。己の信じるものを大切にして生き抜く登場人物たちは魅力的に映った。彼女たちのその後を描いてほしいと思ったけど、どうやら次巻以降主人公は変わっていく。

続きを読みたいようなそうでないような。きっと読まない気がする。

 

 

さて。掃除機をかけたら洗濯しよう。朝ご飯も準備して。今日という日を満喫しよう。そうだ、英語も勉強しないと。

レジンはすっかり遠のいた。誰かの「素人に毛が生えたようなもの」と言われて、確かにそうだと納得してしまった。それで萎えるなら、その程度のものなのだろう。また作りたくなったら始めればいい。

 

その代わり英語は今のところ続いている。なら続けられるものを続ければいい。

 

 

 

 

 

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)144

 

 

過去のできごとを思い出してイライラしていた。過ぎたことを蒸し返してイライラすることに何があるのだろう?自分の優位性を確かめたい? え?そんなこと必要? そんな時間あったら自分を磨くとか労ることに費やすほうが良いなぁと思った。このところ疲れ気味なのだろう。余裕がないからそうなる、たぶん。

 

 

ひとまず山は超えたことだし、次へと進むのだからそこにこだわっている暇はない。後の処理をする人の立場を考えないとか、身内のことだから多少の無理は利くと思っているのだろうが、その人たちの普段隠されている本質なのだろうと思えば、そこからそっと距離を置くだけである。

 

 

わたしがイライラしたのは、そういうところなのだろう。その人たちと見えているものも感じているものも違う、それだけのこと。立場も仕事に対する意識や心構えも違う。そもそもの基準が違うのだから比較のしようがないし、自分の基準は自分にしか当てはまらない。なのにその人たちをわたしの基準で見たからイライラしてしまったのだ。

 

 

何年もやっているのだからわかっているだろうと思ってしまっていた。振り返るとそうやって知らずのうちに自分の基準を相手に当てはめていることは多いなぁと思う。修行が足らん。すべてに於いては難しくとも、近づくことはできる。ならば、そうなるように日々を積み重ねるだけ。

 

 

わたしは起きたできごとを何度も反芻してゆっくり消化していく。そういう性質がある。思い出しイライラもこうやって1つずつ分解して消化していけば、次へと進む。毎日その時間を設けることで自分の負荷を減らす。内省タイム大事。日々のセルフケアである。

 

 

今日は外へ出よう。しばらくお休みしていたハーブティを買ってきて、久々に味わいたい。外食もいいなぁ。人の多さに辟易してテイクアウトにするだろうけど。水回りの掃除は済ませたし、洗濯してアイロンかけて。食料の買い出しもだ。日用品もいくつか買わないと。こうして静かに日常を営めるのはありがたいし幸せだ。

 

 

色々と何かしらが起きて、どうしよう…と途方にくれることもあるけど、なるようになるね。わたしは自分のできることを見つけてベストを尽くすだけ。いつだってわたしにはわたしがいる。だから大丈夫。

 

 

 

 

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)143

 

 

今朝は手がかじかむ寒さ。3月入ってから10日経つ。あっという間だなぁと思う。仕事の方は佳境に入って、今あれこれと最後の詰めの段階に近づいている。とはいえ、ひとつやっては1つ躓き修正してまた違うとこで躓いて…を繰り返している。大変だとは思うが、辛くはない。修正するたびにシステムのことを理解できる。だから今は沢山間違えることだと思う。

 

 

わたしが理解しても、次に引き継ぐ人がわかってないと意味はない気がする。けど、自分がどれだけ理解しているかによって教えられることが変わってくるだろうから、これでいいのかもしれない。

 

 

時々思う。どんなに自分が気に入らなくても、誰かにとっては大切だったり仲良くしたい相手だったりするわけで。どんなに鬱陶しいと思っても組織や社会を構成する一員であるから、わたしの勝手な一存でどうこうするのは違う。自分の感情は切り離して考える。わたしから見たら何で?なことも、能力を発揮するフィールドが違うだけで、組織や社会として成り立つための必要な要素なのだろう。目には目の、耳には耳の役割がある。

 

 

だから役に立つとか気にしなくていい気がする。存在するだけで役に立っている。ただ、目に見えてわかるものでない(実感ができない)から人は苦しむ。一方的な「良かれ」を行うことで誰かの不興を買ってしまい、だけど、受け入れてもらえなかったと自分で自分を苦しめる。本人は自分の「良かれ」が一方的なものだと思いもしないのだろう。悪循環だなぁ。けどそれは本人が乗り越える課題だ。

 

 

誰かを貶めることも然り。自分に起きたことを周りのせいにしていれば、いつまで経ってもその状況は変わらない。自分の行いの結果であるにもかかわらず、自分は認めてもらえないと嘆く。めんどくさいなぁ。むしろ嘆きたいから、自分を憐れみたいからそういう環境を作るのかもしれない。そうやって人は自分を慰めているのかな。

 

 

英語学習は今のところ続けられている。まだ簡単なセクションだしね。aとtheが抜けやすい。どういう時に付けるのか、まだよくわかっていない。発音も聞きわけが難しいものがある。練習していくだけだね。仕事と同じ。間違いを修正するのを繰り返して身についていくのだろう。心なしか、前より聞き取りができるようになった気がする。気がするだけ。

 

 

何でもそうだけど、いきなり目的地へ到着できない。いろんなプロセスを経るからより深い目的地へと到着できるのだろう。

 

 

さて。今日は天気が良さそうなので布団を洗おうか。シーツも洗いたい。レジンもしたい。したいこと沢山。わたしの望みを1つずつかなえていこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)142

 

 

先週、部屋の模様替えをした。といっても、狭い部屋だ。大がかりなことはしていない。使用していないものをしまったり処分したり、家具の配置を少し変えたり。それでもずいぶんと雰囲気は変わった。

 

 

昨日はひどく疲れた感じがして、早々に布団に入った。が、体内時計はそれを許してくれなかったのか、布団の中に熱がこもって暑くて眠れなかった。寝返りをしつつしばらく過ごしていたが、あれこれと考えごとをしていたせいもあって少しも眠気はやってこなかったので、一旦起きることこにした。

 

 

仕事のあれやこれやを考えて頭がいっぱいになっていたので、これでは眠るモードになれないとノートを広げてひとまず頭の中のことを書き出した。書き出してみると、ただToDoリストを作成しておくだけで済むことだった。頭の中に置いておくから訳がわからなくなっていたのだろう。頭の中からメモに仕事のタスクを移しただけで、ずいぶんと楽になった。

 

 

その後もしばらくノートに頭の中のことを書き出し、気づけば1ページ埋まっていた。最近は半分程度で終わっていたから相当溜め込んでいたのだろう。早くに就寝したものの眠れない状況が、それらを吐き出すことにつながったのだから、結果オーライ。すっきりして少し眠気がやってきたので再び消灯。

 

 

なぜか社会人になりたての頃のことを思い返していた。内容は覚えていないが、上司に毎日怒られていたことや、周りが夜勤を組みたがらない人とよく夜勤をしたけど、その人は自分にはそれなりに良くしてくれてたなぁとか。そういう支えがあってわたしはやってこれたんだなと感謝の気持ちが湧き上がったら、ヒプノセラピーをやった時のような涙がこぼれてきた。これって自分なりのカタルシスなのかもしれない。

 

 

それからどの位時間が経ったのかわからないが、目が覚めたら朝だった。いつもより長く布団の中にいたからか、背中や腰がこわばっていた。肩や首を動かしてほぐすともう、気分爽快。朝から機嫌よく過ごせることがありがたいなぁと思う。

 

 

英語学習アプリを使い始めた。正確には、再開。何年も放置していたから新規でも良さそうだけど、どうやらアカウントが残っていたらしい。単調に同じことを繰り返すのが嫌になって放置したのだが、その間に色々とアップデートされていたようだ。久々に始めるけど、まだ易しい段階だからスムーズに進む。中学生初期レベルの英語は覚えているらしい。

 

 

日常会話はほど遠いのだろうけど、聞いて話す、を毎日続けていればまぁそれなりにはなるだろう。課金をするか決めかねている。英会話教室よりも遥かに低コストでできるのでしても良いとは思う。問題は続くか。続くかどうかはやってみないとわからない。課金してやめてしまうかもだし、続くかもしれない。先のことはわからない。

 

 

有料だからできることに魅力を感じるから悩むのだろう。課金することで、続ける意欲につながる可能性はある。人生は何が起こるかわからない。ならば、楽しいとかわくわくすることはできるだけ体験しておきたい。答えは決まった、ね。