わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

受け取るもの・受け取らないものを選択する

 

腕にかぶれができてしまいました。毛虫の毛が洗濯物についたのかと思っていましたが、かゆみも赤みもそれほどではなく、もしかして…と疑ったのは新しく使い始めた保湿剤。でも、他の場所はなんともないので、それも違う。あとは、汗とか石けんの洗い残しとか、何かと何かが反応したのか。

 

 

ひとまず、疑わしいものは一旦排除。時計も外して、保湿剤もやめる。石けんで軽く洗って、その後流水でよーく流して、タオルでよーく水分をふき取る。そうしたら、少し良くなってきました。原因ははっきりとわからないけれど、刺激になるものがあったんだな。

 

 

 

閑話休題。人は受け取る必要のないことを受け取っているんだなっていう話。だから何気ないことばにすごく反応して、感情を動かしたりするのです。

 

 

先日、上司のことばにとてもゾワゾワとして、その感覚が気持ち悪かったので「きもちわるい」と思わずことばにしたら、相手が自分のことを「きもちわるい」と受け取ってしまいました。そこからもう上司はずっと「きもちわるい」を引きずっている。

 

 

一度ことばにしてしまったら、もうそれは取り消せなくて。わたしが自分の感じたことに対する自分へのことばだといくら訂正しても上司には浸透せず。あー、もういいや。ってなりました。わたし自身へ向けたことばなのに、上司へのことばだと受け取っている。

 

 

 

ことばにしてしまったわたしの迂闊さもあるけれど、受け取ってしまったそれを昇華させるのは上司自身がすること。そういうことって日常の中にたくさんあるなぁと感じました。他人へのことばは、実は相手に投影している自分自身へのことばだと認識していない人は多い。

 

 

 

だから受け取る必要のないことばってたくさんある。わたしの職場の経営者はすぐ罰を与えようとします。書類管理の不備で経営者の見たい書類がすぐに用意できなかったら、対応した相手に「なんでそんなことになっているんだ‼減給だ‼」とその時の感情に任せて言い放つのです。

 

 

 

書類管理に不備があったことは事実で改善することですが、その他のことば受け取ることないのです。減給って事あるごとに言うのですが、だいたい経営者の思い通りに相手が動かなかった場合に発せられます。「言うことをきかないと罰を与える」って脅しているんですよね。

 

 

 

経営者から罰を与えられたからって、それで自分で自分に罰を与える必要はないわけで。

 

 

 

経営者は相手をコントロールしたい欲求があり、それが叶わないと、別の人にそれをさせようとします。まるで子どものよう。「先生、〇〇さんが✗✗してくれない。だから叱って!」って言っているようにしか見えなくて、時々笑ってしまいたくなります。

 

 

 

饕餮が暴れている、本来の主に成り代わっているのだけれど、そこに当人は気づいていない。それは当人の課題だから、他の人では解決しようのないもの。ところが周りもそこに気づいていないから、経営者の代わりに解決しようとしてしまう。経営者も周りもそれが当たり前だと思い込んでいる。

 

 

 

経営者の饕餮に振り回されているし、それが当たり前だと従っている。変なの。わかってて従っているのならまだしもね。じゃあ、わたしはどうする?っていつもそう問いかける。そういう状況・環境の中でわたしはどうしたいのかな?

 

 

 

柳や竹のようにしなやかに何ごともかわせるようにありたい。風が吹こうが雨にさらされようが、わたしはいつでも道を照らす灯火だから。その灯火のままでいればいい。っていつも答えが返ってくる。すべてはなるようになるってね。

 

 

 

受け取るものを選べるし、受け取らない選択もある。受け取るかどうかは自分が決めればいい。誰が何を言おうとね。

 

 

 

知人に以前、「毒針を刺す」と揶揄されたことがあります。わたし自身は何気なく言ったことでも相手には毒針のように感じたんですね。相手の罪悪感を刺激するようなことだったのでしょう。だから今回の「きもちわるい」も上司には毒針だったのかな。なんて思いました。