わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)55

 


仕事でやらかした。最終確認で見落としがあって、誤ったデータを顧客へ提出してしまった。やってしまったものはしょうがない。報告をした時にお粗末だと言われても仕方がない。わたしができることに精一杯尽くすだけだ。

 

 

人のあり方はそういうときに強く問われると私は感じている。些細な選択でも問われるが、その選択の積み重ねがこういう時に大きく反映される。ミスをなじる、他責にする、その人のあり方がそこに現れる。

 

 

職場の経営者の子は、これは私見だが、とても愛に飢えている。スタッフと諍いを起こした時や今回の件で報告した際のその人の言動から勝手に推測しているので、実際は違うかもしれない。その人は無条件に愛された体験や感覚に乏しいまま成長したのだろうと感じる。

 

 

もちろん、その人の歴史をわたしは知る由もない。ただ、ことばの端々にそれを感じているだけだ。最も恐れているのは、拒絶(愛されないこと、否定されること)。見捨てられるのでは?と不安なゆえ、自分を守るために他者を攻撃する。愛されない自分を認めたくないから。

 

 

愛されたくて、認めてほしくて。だからそれが脅かされると物凄く攻撃してくる。少し前に(本人にとって)対等でない立場のスタッフが自分に意見したと言って激昂していたが、自分の立場を守ろうと必死だったのだろうと思う。(スタッフは仕事の流れについて意見したが、おそらく本人は自分が否定されたと捉え、その恐怖から逃れるために激昂した)

 

 

(わたしにとって)職務上の立場のような一時的、限定的などうでもいいものに縋るくらい、その人は脆いのだ。ただ、周りの人たちはそんな心理はなかなか理解できないだろうし、自分たちが理不尽に攻撃されたと思って傷ついてしまった。

 

 

その激昂の現場にわたしは居なかったが、居合わせた人たちや本人の話から、ボタンの掛け違いがあることはわかった。聴くところによると随分前から掛け違いがあるようなので、関係を修復するのは困難かもしれない。(互いの理解、歩み寄りはしたがらないだろう)

 

 

冒頭のミスの件を報告した時は、自分のほうが立場が上で、格下のわたしが報告を挙げるのではなく、自分と対等な立場の部長クラスから報告しろと言っていた。びっくりして何を言われたのか理解するのに少し時間がかかったが、ミスの内容や顧客のことよりも自分の立ち位置を気にしているのだった。

 

 

あぁ。自分しか見えてないんだな、この人。子どものまま大人になったんだな。親である経営者もまた自分しか見えてない、子を通して貪ることばかりしているようにわたしには見えるから、本人がそうなってしまったのは仕方がないのかもしれない。あの親子は互いに貪ることばかりしている。

 

 

憐れむ気はない。その人がどう乗り越えるのかを見守るだけだ。他人の課題だ。で。わたしはなぜそう感じたのかを考えてみた。わたし自身、親から自分を見てもらえなかったという気持ちを持っている。そして怒りも。だからそう感じたのかもしれない。

 

 

わたしはその課題を乗り越えたのかどうか、まだわからない。自分を見てもらえなかったと嘆くなら、わたしがわたしを見ればいい。与えられなかったと腹を立てるなら、わたしがわたしに与えればいい。いつでもわたしの傍にいるのはわたしなのだから。そう思うようになったし、実際にそうしている。