わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)56

 

 

今日は快晴。爽やかな陽気でありがたい。休日にゆっくり過ごせることがありがたい。シュレッダーを購入した。ずっとハサミで書類を切って処分していたが、だんだんイヤになってしまったのだ。頻繁に書類を処分するわけではないので、卓上タイプのスッキリとしたデザインのものを選んだ。

 

 

 

早速使ってみる。サクサク裁断してくれてありがたい。我が家に来てくれてありがとう。とても助かる。

 

 

 

わたしの周りには満たされないココロを抱えた人たちが多いと感じる。経営者にしろ、同僚にしろ、家族にしろ。満たされないがゆえにルールをないがしろにするのかもしれない。でもね。満たされないからこそわかること、学べることがあるとも思う。わたしは満たされなかったから、今がある。

 

 

前回の記事を書きながら、わたしはわたしのココロの痛みを感じにくい状況になっていたのかもしれないと思った。傷つきすぎて、痛みの感覚が麻痺していたのだろう。これ以上痛みを感じないよう、フタをして見ないようにしていた気がする。

 

 

ようやく自分を少しずつゆるせるようになった。とても緩やかに。長いこと傷をそのままにしてきたから時間がかかるのは当然。だからこそ、周りの人たちの満たされなさを感じられるようになったのだろう。

 

 

社内のルールを無視するスタッフは、自己憐憫の情が強いように感じる。かわいそうな自分の状況をいつも作っては自分を憐れんでいる。社内ルールを無視することは、会社をないがしろにすることで、その積み重ねが周囲の自分への信頼を貶めることに繋がるとわたしは思う。

 

 

でもそれはわたしの価値観。その人は違うのだろう。このところその違いにイライラしていたが、わたしの価値観を相手に押し付けているだけだなと今朝、目が覚めたときに気づいた。その人はただ自分を満たすことで精一杯なのだ。

 

 

今度、ルールを無視している場面に遭遇したら、ルールが変わったのか、自分の判断で行っている(ルールを曲げている)のか、確認しよう。それで本人がどう思う。正解をわたしに求めてくるかもしれないが、応じる必要はない。わたしの正解とその人のそれは違うから。

 

 

きっと怒られたとか怒りを買ったとかにフォーカスするだろう。自分を憐れむためにね。そんなことを想像していたら、ボタンの掛け違いってそこかしこで起きているんだなとわかる。だからこそ学べて成長できるのだろうね。