わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

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自分の機嫌を自分でコントロールすることの心地よさとは



ちょっとしたことで怒りだしたり、拗ねたりする人、わたしたちの周りにいませんか?あるいは「オレ(私)を怒らせているのはオマエだ」とか言っちゃう人。いやいや、腹を立てているのはアナタでしょって話です。なにを隠そう、わたしもそういう人間でした。こうなったのは自分のせいじゃない、周りのせいだって思っていました。



かつてのわたしがそうだったから、自分の機嫌を自分でコントロールできない人のココロの動きが想像できます。触れられたくないコンプレックスを刺激されたんだな、自分の行いが周りにどんな影響を与えたのか気づいていないんだな、とか。



今日は自分の機嫌を自分でコントロールすることについて書いていきます。自分の機嫌を自分でコントロールできると「心地よい」です。周りに大きく左右されなくなるから。揺れ動いても振り幅が小さくおさまります。ではでは、本文へいきましょう。



かつてのわたしは自分の機嫌を自分でコントロールできない人でした



小学校低学年のころのわたしは、泣き虫でした。なにかあればすぐ泣く。泣けば周りがいつもなんとかしてくれると思っていました。幼稚園のころは噛み付いていましたね、そういえば。暴力的。当然、すぐに通用しなくなりますね。そうしたら代わりに威圧するとか怒鳴るとか無視するとか覚えるんです。方法が変わるだけで周りを自分の思い通りにコントロールしようとするのです。




わたしの親がそうでした。自分の思う通りにわたしをコントロールしようとしてわたしに怒ったり脅したりしたので、無意識のうちにわたしも同じように行動していたのです。でもね。親もいっぱいいっぱいだったんだと思います。気持ちに余裕がなかったのだろうな、と今なら想像できます。




社会へ出て、働いていた職場ではたえず緊張して業務に追われている状態だったので気持ちに余裕がなく、いつもトゲトゲしく、ちょっとしたことで不機嫌になっていました。(どうしてやさしくできないんだろうって自己嫌悪に陥りながら)一生懸命なんだけど仕事の遅い後輩にいらだって冷たい態度をとったりとか。




時には「この人、使えない!」って思ったりね。今思い返せばすごく傲慢な人間です。同僚や職場の人たちを道具のように思っていたからこそ「使えない」ってことばがさらっと出てくるんです。一緒に働く人たちは自分のための道具じゃあないのにね。ほんと、わたしは自分を知らない、知ろうともしない残念な人間でした。




自分を知らない、知ろうともしないから自分で自分の機嫌をコントロールできないのです。スマホや車は操作の仕方を知らないとなにをどうすればいいのかわからないでしょ?人も同じです。自分の扱い方を知ることで、はじめて自分をコントロールできるのです。では自分を知るためには、なにが必要なのでしょうか。



すべては「気づき」から始まる



わたしがあることで行き詰まりを感じていた時、ある人に相談にのってもらいました。わたしは「あの人がこういうことをしたから」「コミュニティがこうなったから」と現状に対する不満ばかり話しました。わたしはただ愚痴を聴いてもらいたいだけだったのかもしれません。「そうだよね」と共感がほしかったのですが、相手は否定も肯定せずにいました。




なんで賛同してくれないのかなぁとしばらく悶々としました。ちょっとムカっとしましたね。賛同してくれると思っていたから。でもそれがあって自分が困っている理由をまわりや環境のせいにしていたことに気づけたのです。自分で自分をがんじがらめにして行き詰まっていたことに気づいたのは、さらに時間が経ってからです。




わたしが変わった、転機だと思っている大きな気づきは、「わたしはわたしでしかない」が腑に落ちた時です。その頃、自己肯定感が低いことをとても気にしていたんです。自己肯定感が高ければ、自信が持ててうまくいくんじゃないかって思っていました。だから自己肯定感を高めるために自分を褒める練習をしたりしていました。




でもちっとも高くならなかったです。やればやるほどみじめな感じになりました。苦しい。つらい。でね。ある通勤時の朝、いつものようにBon Joviの曲を聴きながら歩いていたらね、自己肯定感を「高い」「低い」と感じているのは他ならないわたしで、「高い」と感じようが「低い」と感じようがわたしはわたしじゃない?ってはたと気づいたのです。自己肯定感が高かろうが低かろうがわたしはわたしだと。




自己肯定感が高いときもあれば低いときもある。そこに優劣なんてない。高める必要もないし、低いと思う必要もない。そもそも自己肯定感に高い・低いという杓子は存在しない。高くても低くてもわたしはわたしなのだから。なのにジャッジメントするから苦しむんだって気づいたら、目の前のモヤが急に晴れて視界が明るく広がって見えました。




その時のわたしの頭の中ではBon Joviの「Lost Highway」が流れましたよ。これかぁ!って。例えるなら、ヘレン・ケラーが「水」という文字の意味を理解した瞬間のようでした。サリバン先生はこれを伝えたかったのね!ようやくわかった!という、カラダの中に電流が走るような震えるような感動です。感極まって涙が出ましたもの。




それからわたしには多くの手助けがあって支えられているのだということに気づいたり、自分は充分に足りていると感じられるようになりました。だから腹が立つこともあまりなくなるし、嫌なことがあっても受け流せる。他者との境界線がはっきりするんです。





衝撃的なことがあって揺らいだとしても、振り幅が少ないからもとの状態に戻るのが早いです。どうしたらもとの状態に戻れるのかが自分の中でわかっているから、揺れ動いても大丈夫なのです。自分の機嫌が自分でコントロールできる状態です。それができるようになってきたのはここ最近のことですけれどね、実は。





残念ながら、これには再現性のあるメソッドってないんです。人は機械と違って同じ思考ではないから。同じできごとでもとらえ方・感じ方が違うんです。「こうしたら必ずこうなる」とはお伝えできないしお約束もできないのです。わたしたちそれぞれの中でしか探しようがないものなのです。




メソッドがあるとすれば、自分のために自分と過ごす時間を作り、自分を見つめることです。特別なものはありません。いろいろな書籍や記事に書いてありますよね。方法としては瞑想だったり散歩だったりヨガだったりがよく紹介されていますが、自分に合うものを見つければいいのです。




参考になるかわかりませんが、わたしの場合はぼーっと何もしないでいる、音楽をひたすら聴く、ノートに今の気持ちや感じたことを書く、通勤(徒歩です)は前日とは違う道を通るなどがあります。鳩が毎朝集会を開いている場所があったり、この道はここへつながっているのか!という発見があったりね。






こうしていくつもの気づきが積み重なって今のわたしがあります。あの時相談を受けてくれたその人には、ありがとうをいくら伝えても伝えたりない。今でもありがとうがあふれるんです。いつも。わんさかと。



ジャッジメントしないことが自分で自分の機嫌をコントロールする要素



では、最後に自分の機嫌を自分でコントロールするための要素について書きますね。冒頭でも書きましたが、自分の機嫌を自分でコントロールできるようになると、コントロールできない人のココロの状態がある程度想像できるようになります。なので周りに左右されることが少なくなり、自分の快適温度を保ちやすいです。保温器みたいにね。




数日前のことです。お昼休憩中に電話に出たんです。休憩時間に電話番って休憩はあってないようなものですが、それはさておき。わたしが電話に出るやいなや、相手がいきなり自分の要求を一方的に話し出したんです。「〇〇を用意しろ!それがお宅の仕事だろ!うちに仕事をさせないつもりか!」




え…?状況がよくわからないんですけど…?ってわたしが戸惑っていることなんて気づきもせず、一方的に要件を言ってくる。話の内容からおそらく担当者は▲▲さんあたりかなと推測し、その件は担当者に伝えると返事をしたら電話は切れました。




「こちらの話を一切聞こうとせず一方的に話すってことは、よほど余裕がないのか焦っているんだな、それにしてもちょっと困った電話だったな」で終わったのですが、以前のわたしが電話を受けたらすごーく嫌な気持ちになったと思います。一方的に言いたい放題で何なのこの人⁉腹たつーーー!!って。




休憩中にこんな電話があったという報告を事務の人にしたら、「あぁ、あの人ね…」って渋い顔になっていたので事務の人も対応に困っている相手なんだな、と察しがつきます。どうやら電話の主はキャパオーバーに仕事を引き受けて回らなくなっていることをこちらのせいにしてきたようなのです。仕事を引き受けたのは誰やねん、なのですが。




相手はこちらが嫌がらせをしている、仕事を妨害しているという認識でいるようなので、お互いの折り合いがつかない状態でした。肝心の担当者は「ヤクザから電話あったんだろう?」って冗談なのかなんなのかよくわからないことを言って、その人からの電話に出ようとせず居留守を使うのです。それがよけいにこじらせるって気づいていないんですよね。周りにもとばっちりが飛ぶわけで。




…ということがありました。何なのこの人⁉腹たつーーー!!とならずに周りの人の状態を冷静に観察できたのは、そのできごとをジャッジメントしていないからです。ジャッジメントすると電話の相手にも担当者にも腹が立ちます。自分の価値観に相手を当てはめようとするので、(価値観に当てはまらない)相手がゆるせない気持ちがわいてくるんです。




自分の価値観に誰かを当てはめたり、誰かの価値観に自分を当てはめよう・当てはまろうとしなければ、つまり、ジャッジメントしないから自分の機嫌を自分でコントロールできるとも言えます。ジャッジメントしてしまったとしても、してしまったことに気づけばそれでよくて、それ以上誰かや自分を責めたり咎めたりすることをしません。自分を傷つけるだけですから。それが自分の快適温度を保つ、心地よい場所にいられる一番の要素です。




ことばを変えれば、「ゆるす」です。ジャッジメントしない=ゆるす、なのです。起こったできごとをゆるしているのです。ゆるしのことは(否定も肯定もない「ゆるし」が心地よい)という記事も参考にしてみてください。




おわりに



仏教には煩悩即菩提ということばがあります。わたしなりの解釈だと煩悩があるから悟りがあるという感じでしょうか。不勉強なもので詳しく説明はできないのですが、悩み・行き詰まった経験があるから気づくことってたくさんあると思うのです。悟るとまではいかなくても、気づくことができればそこから始まるんです。




特別な修行やお金をかけて何かをしなくても、鳥のさえずりとか流れる雲、行き交う電車や人の流れなど日常のなかに気づきはたくさんあります。それがわかれば自分にとっての心地よい場所ってだんだんわかってきます。




でもね。見つけようと思って探しているうちは見つからないです。流れに身を任せて気づきをくり返しているうちにいつの間にかたどり着く、そんな感覚です。