わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

生命を食べることに罪悪感があったから気づいたこと


子どもの頃からわたしは他の生命をいただく(食べる)ことに罪悪感がありました。他の人はそんなことを考えているようには見えなかったから、罪悪感があるのはおかしなことだと思っていました。食べることに罪悪感を持つのかありがたいと思うのか、それはものごとのとらえ方次第だと最近になってようやくわかってきました。


今日は生命と食べることについて書いていきます。では、本文へ。


食べることは罪なのか



子どもの頃、ご飯を食べている時にふと「このアジの開きはわたしが食べるために生まれてきたのだろうか?」と思ったんです。このニンジンも鶏肉もほうれん草もすべてそうなのかな?と。お風呂場のタイルにも「このタイルはうちの風呂場の一部になるためだけに作られたのだろうか?」と。



わたしに食べられるため、それだけの理由で生まれてきたのならば、とても虚しいことだと感じてポロポロと涙がでました。むやみに生き物を殺してはいけないと教えられてきたからかもしれません。殺してはいけないと言いながら、なぜ食べるために殺すのはゆるされるのか。



他の生命を食べて生きるわたしはなんて罪深いのだろうと子どもながら思ったのです。



学校へ行ってクラスメイトと過ごしたり、宿題やら兄弟げんかやら日常があわただしく過ぎていくうちにそのことは忘れてしまうのですが、ふいに思い出しては涙していました。親へも友達にも相談できず。なんて相談すればいいのかもわからなかったから打ち明けようともしませんでした。




年齢を重ねやがて社会へ出ていくと、美味しいものを食べればそれで満足し、目先の欲を満たすことに夢中になって、わたしは子どもの頃感じた食べることへの罪悪感を思い出すことも生命を食べているという認識すらなくなりました。(それこそ罪深いことかもしれませんが、それがあったから今のわたしがあるので、何がどうなるかはわからないものです。)



でね、今はこう思います。生命を食べることをジャッジメントしなくていい。ただ、わたしたちが他の生命をいただいたその上にあるということがわかっていれば。




生命はめぐっていくもの



どうしてジャッジメントしなくていいって思うようになったのか、ご説明していきますね。まず、わたしはわたしでしかないって腑に落ちてから、たくさんの手助け・支えがあって今のわたしがあるということに気づいたんです。



たとえば、着ているTシャツ。デザインする人がいて、それに合わせて縫製する人がいる。製品を箱につめる人がいて、運ぶ人がいる。店頭に並べる人がいて、接客する人がいる。もっと遡れば、綿花を栽培する人がいて、収穫する人がいて、糸を作る人がいて、生地を作る人がいる。実に多くの人の手を経てわたしたちの元へ来ています。



わたしたちが手にしているスマホだってそうです。液晶画面を開発する人がいて、アプリを開発する人がいて、回路を組み立てる人がいて、梱包する人がいて…って魔法でパッと一瞬で作り出されたわけではないですよね。今、すれ違った人はあなたの持っているスマホの開発に関わっているかもしれない。



わたしたちは決して自分ひとりで何かをしているわけではなく、見えないところでたくさんの手助け・支えがあって今があるのです。それは人だけではなく、他の生き物でも同じです。たとえば、薬。COVID-19のワクチン開発を早急にっていわれていますが、ひとつの薬を開発するときにその有効性を確認するためには、何度も実験をしてデータを集めます。まずはラットやマウスなどの動物で。



あなたが風邪っぽいからと手にしたその風邪薬、どれだけの動物の生命の上にあるのでしょうね?



そういったことは、わたしたちの目の届かないところ、気づきにくいところにいくらでもあるのです。たくさんの生命に支えられてわたしたちは生きている、それがわかったら食べることも同じだと思ったのです。他の生命に支えられているのだと。



それにね。わたしたちのカラダはたくさんの細胞の集まりです。細胞1つが1つの生命ならわたしたちは生命の集合体です。



もっと分解すれば、元素の塊なわけで。炭素と水素とチッ素とカルシウムとその他が集まって細胞となり、生命となっているわけで、そうすると構成が違えばダイヤモンドだったかもしれないし、トンボになっていたかもしれないし、雲になったかもしれないのです。



ニンジンはニンジンの形を失ったかもしれませんが、食べることでわたしたちのカラダを構成する一部へと変わったのです。そしてわたしたちもいずれ今の形を失って違うものへと姿を変えるのです。それはアジの開きかもしれないし、お風呂場のタイルかもしれません。



そうやって生命はめぐっていくのだとわかれば、食べることに罪悪感を感じなくてもよいのだと思えたのです。わたしたちが多くの手助け・支え・生命の上にあるということ、いずれ同じように何かの土台となるということがわかっていればそれでいいのです。


充分に足りている


今回のまとめ。
食べることに罪悪感を感じたからこそ気づきがあったのだと思います。時間はかかりましたけど。それだけわたしには経験を重ねる必要があったのでしょう。


多くの手助け・支え・生命の上にわたしたちが今いるということがわかっていれば、ことさら何かを欲しなくても充分に足りているって感じられます。心地のよいことです。