わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

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ものごとの意味づけに「ご縁」を使いたがるワケ



結論から書きます。ものごとを自分の都合のよいように解釈したいからです。誰だって自分を認めたいですから。この人に会ってから事業がうまくいくようになった、これはこの人と自分に「ご縁があった」からだ!引き寄せたんだ!ってね。うん。事業がうまくいくようになったことを喜びたいし、その人に感謝したいんだよね。




ですが、ものごとがうまくいかなかったという(自分にとって)否定的な「ご縁」もあります。この場合、「ご縁がなかった」と表現します。しかし、「ご縁」そのものに否定も肯定もありません。ものごとがうまくいかなかったという「ご縁」なのです。つまり、(自分にとって)肯定的なものだけが「ご縁」じゃないですよ、というのが今日のお伝えしたいことです。それでは、本文へまいりましょう。




「ご縁」とはなにか



たとえば、あなたが散歩に出かけたものの外の空気が冷たくてカラダが冷えてしまい、温かい飲み物がほしくなったとします。喫茶店が目に入って立ち寄ります。

①「良かった、ありがたい」とお店に入り、温かい紅茶を飲む。

②定休日でした。


①は、自分の望むものが自分にとってちょうどいい具合で起こりました。都合のよい状態です。運が良かった、タイミングが良かったなどと思うでしょう。では、②は?自分の都合とは合っていない状態ですね。「カラダが冷えて困っているのにどうして休みなんだ!」と腹を立てるかもしれません。



①だけを「ご縁があった」と呼ぶのでしょうか。

いいえ。②もまた「ご縁があった」のです。
茶店は定休日であなたは温かい紅茶を飲めなかったという「ご縁があった」です。


ご縁とは、できごと・起きたこと・行いの結果そのものを指します。あなたが今この記事を目にしているのも「ご縁」です。最後まで読んでも、途中で閉じても「ご縁」なのです。ご縁そのものに否定も肯定もありません。ですが、人が都合よくものごとを意味づけしたいとき、自分にとって肯定的なものだけを勝手に「ご縁があった」と呼んでいる場合が多いのです。



「ご縁」を使いたがるワケ



じゃあ、どうして自分にとって都合の良いことに「ご縁」を使いたがるのでしょうね?それは、自分で自分を認めたいから特に肯定的にとらえたものに「ご縁」を使うのです。どういうことなのか解説していきますね。



人は幼少時から”条件つきの愛”のもとで成長してきたケースが多いです。言いかえると、「〇〇であるべき」をたくさん持ち合わせています。「もっと評価されるべき」「もっと愛されるべき」「ひとは対等であるべき」「まわりと意見をあわせるべき」など…それはもう、たくさん。



「〇〇であるべき」がたくさんあると、そこに当てはまらない自分がどうしてもでてきます。完璧主義なひとは特に。「べき」だけが正しいと認識しているので、当てはまらない自分がゆるせません。



たとえば、「理不尽なことを言われて悔しいのに何も言い返せない」と自分を責めたとします。その背景には「理不尽さをはねのける強さがあるべき」という本人はあまり気づいていない認識があります。でも実際は言い返せない。「べき」に当てはまらない自分がいるのです。それは自分にとって正しくない。だから自分をゆるせない。だから自分を責めます。



「理不尽さをはねのける強さがある」自分だけがゆるされて、そうでない自分はゆるされない。これが”条件つきの愛”です。ほんとうは「理不尽さをはねのける強さのない」自分でも愛れたい(ゆるされたい)のに、「理不尽さをはねのける強さがある」自分だけが愛される(ゆるされる)、幼少時からそう刷り込まれているのです。(親からそのように愛情を受けます。親もまたそのように愛情を受けてきたからです。)



だから自分で自分を認めるためには、認められる状態(ゆるされる状態)になっていないといけない。そう、自分の中の「べき」に当てはまっている状態です。それを都合のよく満たすできごと、人、モノが現れた。そのことによって自分を認められる状態にしてくれた、あるいは自分で自分を認められない代わりに世間が自分を認めてくれる状態になった、それを「ご縁があった」と呼んでいるのです。



なので、「ご縁があった」から〇〇できました。〇〇さんに「ご縁」をつないでいただいたおかげです。と言う人に遭遇したら、わたしは『それはこの人にとって自分を満たす特別にありがたい、感謝したいできごと(人物)なんだな』と解釈します。





すべてが「ご縁」で成り立っている



ひとはね。いつも認められたいと思っています。いつでもOKされたいのです。その存在を。何より自分に。だから自分を肯定できるように起きたできごとに意味づけをします。人生の意味を考えたり、生きる理由をさがしたり、自分に都合のよいようにものごとをとらえようとします。今回のテーマ「ご縁」もそのひとつです。




以前、あこがれのサンライズ出雲に乗って出雲へ行きました。夜行列車なので、夜働く人がいて成り立っています。電車の運転士さんがいて、車掌さんがいて、電車を整備点検する人がいて、車内を清掃する人がいて、線路を点検する人がいて、運行を管理する人がいて、駅員さんがいて…すべて「ご縁」です。




出雲へ行くのに多くの人の手助けがあることがありがたく、そしてつながるものはつながるし、つながらないものもあり、離れるものは離れる、それが「ご縁」だとその体験から感じるようになりました。「ご縁」のために出雲へ行ったのではなく、行きたくなったから行った、それだけですけど、それもまた「ご縁」なわけです。




わたしたちは「ご縁」のかたまりでできています。親をはじめとするご先祖さまからのご縁があり、世界、世の中で「ご縁」をつむいでいます。自分にとって特別なことだけが「ご縁」じゃないんです。中には目をそむけたいものもあるかもしれません。しかし、その上に今の自分があるのですから、それもまた「ご縁」なのです。



すべてが「ご縁」で成り立っているとわかれば、「ご縁があった」とわざわざ起きたできごとを都合よく意味づけしなくても、そうあることに「ありがとう」の気持ちが芽生えます。