わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

与えることや見返りに縛られないために


Give and Takeってよくいわれますよね。世の中持ちつ持たれつだから、何かをしてもらったらお返しをするのが当然、というような。与えるから見返りをちょうだいね、と。なかにはGive and Takeを装ってTakeだけの人もいます。しかも本人は気づいていない。



けどね。人に限らずつながりが途切れるものは途切れますし、つながるものはその時につながります。つながらないものもある。なるようになる。それが縁というものです。だから与えることや見返りにと縛られることないなぁ。ということが今日のテーマです。では、本文へいきましょう。



与えてもらうこと・見返りを求めること



先日のことです。知人が今まで一生懸命つみ重ねてきたことが書籍という形になり、めでたく出版と相成りました。文章を書くにも校正にもどれだけの時間と労力がかかったのでしょうか。そのぶん、出版できたことの喜びはさぞかし大きかっただろうし、発表する時はドキドキしたと想像します。




わたしは出版業界のことはまったくわかりません。ですが、書籍を出版したからには、出版社も元を回収したいはずです。できるだけ売りたいでしょうね。売れれば著者本人への還元も大きくなるでしょうし。件の知人も買ってほしいから当然自分の書籍を宣伝するわけです。まわりの人にも宣伝の協力をお願いしたり。





知人はコミュニティ内で出版の宣伝の協力をお願いしていました。「SNSでの宣伝シェアと購入とレビューをお願いします、していただいたらお返しに〇〇をします、特典として▲▲をつけます」ってね。以前のわたしなら「〇〇さんが書籍を出版したんだ!すごーい!しかもこんなお返しがあるなんて!これは応援しよう!」とSNSで宣伝したり、購入して読んだりしましたし実際、してました。




これ、損得勘定がはたらいていたんですよね。相手が喜ぶこと(この場合は本の宣伝と購入)をすれば、わたしのことを覚えてもらえる、つながりができるなどの見返りを求めていたんです。うん。でもね。忘れる人は忘れるし、つながりは途切れるときは途切れます。逆に、それがなくても覚えている人は覚えているし、つながる時はつながるのです。




知人は個人メッセージでも出版の連絡をしてきました。「あの時は大変お世話になりました。あの経験がこうして書籍になりました。良かったらレビューお願いします。」と購入先のURLを一緒に貼り付けて。あなたはお世話になったと心から思う相手に、そんな内容のメッセージを送りたい?




とはいえ、そういう薄っぺらい表面だけの関係性を築いてきたのはわたし自身です。わたしが薄っぺらい人間だったから。身から出たサビ。知人のせいではないです。




知人はわたしに与えているつもりでいます。でも、実際はわたしが知人に与えることを求めています。気づいていないんですよね。自分がTakeすることがまず先で、Giveが後であることに。で、だいたいTakeしたら終わりです。Giveはない。わたしがそうでしたからよくわかります。与えずに与えてもらうことだけ求めているのです。




見返りを求めるのは、自分が与えてほしいからで、自分の要求がまず先にあるんですよね。自分から相手に何かを与えたいと思ったら、相手が先。自分がそうしたいからそうするだけで見返りは望まないです。また、何かを与えていただいたと感じるのなら、その恩恵は社会へお返しすればいいのです。ヘタに見返りを用意するよりよっぽどいい。




それで人が離れるなら、人間関係の煩わしさがひとつ減って身軽になります。そうでなくても、つながりが途切れるものは途切れますし、つながるものはその時につながります。つながらないものもある。それが縁というものです。だから与えることや見返りにことさら縛られることないなぁと思うのです。




与えられたその恩恵は社会へお返しすればいい



ここからは、Takeが先で相手へのGiveがなかったわたしが(今もGiveがあるかどうか怪しいけれど)、どうして与えることや見返りにしがみつくことないなぁと思うようになったのか書いていきますね。このブログ内では何度か出てきていますが、ゆるし=ジャッジメントを手放す、です。(参考記事:否定も肯定もない「ゆるし」が心地よい)




人は自分の中の足りないと感じるものを埋めようとするとき、自分の外側から補おうとしてしまいがちです。たとえば、年収〇〇円以上とか髪型がどうとか身長〇〇センチ以上とか恋愛相手に条件を求めてしまう人いますね。それって相手のスペックで自分の足りないものを補おうとしているだけです。




「〇〇な自分」に価値があり、その〇〇を満たすものが相手のスペックです。相手そのものを見ていない。「誰もがあこがれるような自分」の「誰もがあこがれる」部分を恋愛相手に望むのです。誰もがあこがれるのは、恋愛相手のスペックで自分そのものじゃないじゃん。恋愛相手は自分を飾るためのアクセサリーじゃないぞっていう話です。




だからだんだん齟齬がでてくる。気に入らないから別れる。そしてまた次のアクセサリーを探す。そのくり返しです。自分の足りないものの本質をわかっていないから。


足りないって感じているのは誰でしょうね?






足りないって感じているのは、自分ですよね。


自分は満たされるべきだと考えているんですよね。



でも、満たされるべきなのに満たされていないから、自分をゆるせない。満たされる自分だからゆるされると思っている、いわば、自分に対して”条件つきの愛”を持っているのです。




自分にGive and Takeを求めているようなものですが、それがわからないでいるのです。わからないから、他者に求める。




ほんとうは満たされていなくてもゆるされたいんです、なにより自分にね。




誰か、じゃなく。

条件つきじゃなくて無償の愛を。(無償の愛についてはわたしの中でまとまったら記事にしますね)




楓の葉が秋に色づくのは、わたしたちに見返り求めているからですか?

雨が降るのは見返りがあるから?

満たされたいと思っているからそうしているのでしょうか。


きっとちがいます。それと同じように満たされていようとなかろうと、自分は自分で、それ以上でも以下でもないのです。




満たされていることにも満たされていないことにもこだわらない。どちらであろうとなかろうとどうでもいいことなのです。それがゆるしであり、ジャッジメントを手放す、です。「決めない」がわかりやすいでしょうか。満たされてるとも満たされていないとも決めない。




そうすると、あら不思議。今のままで充分満たされていることがわかります。




で、与えることや見返りの話に戻ります。こちらが与えたとしても「与えられた」ととらえるかは相手次第です。また見返りを求められた(求めた)としても、それを「見返り」ととらえるかは同じように相手次第です。自分と相手の認識は同じとは限らないですし、相手がどうとらえるかはコントロールできません。




与えた認識がなくても相手が「与えられた」と感謝するかもしれないし、与えたつもりでも「余計なお世話」と思われることだってありますしね。見返りにしても同じです。Giveしたからどう、Takeされたからどう、って逐一相手を気にして反応していると疲れます。




恩恵を感じたら、「ありがとう」と社会へお返しすればいいのです。なんせ今のままで充分満たされていますからね。誰かに何かを与えないといけないとか、いただいたからにはお返しをしないとまずい、と縛られるのではなくて、与えたいから、お返しをしたいからそうするのです。




おわりに



何度も書きますが、つながりが途切れるものは途切れます。つながるものはつながります。つながらないものもある。つながっていないようでもどこか遠くでつながっていたりもします。それが縁です。だからつながりを強く求める必要もないし、そのためにGive and Takeを持ち出すこともないのです。



与えることや見返りを求めることがなくても、そうあるものはそうある。それだけです。