わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

COVID-19と知人の死から見えた人がもっとも恐れるもの


これも結論からいきます。人がもっとも恐れるもの。それは「失うこと」です。失うことを恐れています。財産を失う、人を失う、環境を失う…今、その人が持っているものすべて。その中でも「生きる」を失うことをとても恐れています。



時がくれば誰しもすべてを失うのにね。これ、今回のテーマです。では本文へいきましょう。



COVID-19を過剰なまでに恐れる人々


中国武漢市で発生したCOVID-19の感染はまたたく間に世界へと広がりました。交通手段の発達により移動が容易くなり、それだけ人や物資の行き来が盛んであるからです。対岸の火事だと最初は思っていました。


政府が武漢市からの帰国希望者のためにチャーター便を用意したことで、COVID-19は持ち込まれるであろうことは容易に想像できたし、そうでなくとも人が移動すれば、いずれ感染は広がるのです。あっという間にマスクや消毒用アルコールが品薄となり、トイレットペーパーなどの紙類までもが買い占めの対象となりました。満たされないものをそれらで埋めようとするかのように。


未知のウイルスに戦々恐々となり、緊急事態宣言が発令され、学校の休校、移動の自粛、事業の自粛、自粛、自粛でピリピリムード、息がつまりそうになる方々もいらしたでしょう。


第二次大戦中ってこんな感じだったのかなぁ。いつ空襲があるかわからない、夜は家の灯りが外に漏れて空襲の目印にならないよう電球に黒い布を巻きつけたりしたと聞きました。ずっと緊張状態が続くのはつらいことです。


緊急事態宣言が解除され、徐々に自粛は緩和されてきたものの、メディアの影響もあってか気温35℃を超える暑い日でもマスクをつけて歩き、その日の感染者数の増減におびえるなど、人々のCOVID-19への恐れは消えないのです。その姿はWithコロナと謳いながら、COVID-19を排除しようと一生懸命になっているようにしか見えません。



わたしも最初は感染を恐いと思いましたから外出時にはマスクをしましたし、人を避けました。周りと同じように過敏になっていました。けれど。その一方で心地悪さをずっと感じていました。もうね。マスクは免罪符にしか見えないんです。



「わたしはルールに従っています。常識あります。」と従順さを主張するだけで、しかもうわべだけ。本質がないから心地悪いんです。COVID-19だけが感染症じゃないし、死に至る病でもありません。人のカラダは病原体が侵入できる造りになっています。進化の過程でそうデザインされたのです。病原体の侵入が人にとって脅威なら、そうならないようにデザインされたはず。そう考えてわたしはマスクをするのはやめました。




また、COVID-19に感染して症状がでるかどうかはその人の免疫システムしだいです。侵入してきた病原体を敵とみなして攻撃するかどうかによるのです。それは感染してみないとわからないですし、自分の意思ではコントロールのしようがありません。人にうつすとか、人からもらうとかも同じ。だれかのせいじゃない。




マスクもそうですが、人は目に見えてわかりやすいものを信じます。だから目に見えないCOVID-19ではなく感染した人を責めたり攻撃するのです。




知人の死がもたらしたもの



話はいったん変わります。闘病中だった知人が亡くなったと知らせがありました。知人の誕生日から1週間後あたりでした。誕生日にメッセージを送った時の返事からあまり芳しくなさそうな感じがしていましたので、亡くなったと知って「やっぱりそうか…」と思いました。



悲しい気持ちもありましたが、病気による痛みや思うように体が動かない苦しみからは解放されラクになったのだなとも。闘病生活に入る前、知人は「死ぬんじゃないか」という不安を吐露していました。わたしは詳しい病状を知らないのですが、相当厳しい告知をされたのかな、と想像します。



でね。知人の死を知った人たちの一部はその悲しみをSNSに投稿していました。わたしも。その頃、SNSとの付き合いかたを考え直していたところでもありました。SNSは箱だな、と。自分ひとりではどうにも処理できない気持ちを入れる箱。その投稿のひとつひとつに反応しているとエネルギーを消耗して、ざわざわするのです。



話がそれてしまいましたので戻しますね。その人たちの投稿の内容を見て、その人たちには死が当たり前ではないのだなと感じたのです。悲しいと訴えて死があってはならないもののように映りました。なんで死があってはならないものなのだろう?と思ったわけです。



で、気づいたんです。人は失うことが恐いんだと。特に死は「自分」を失うことだから、ことさら恐いんです。言いかえれば「自分であること」に執着しているのです。身近な人の死でそれをつきつけられる、失うことを意識させられるから恐い。だから死を遠ざけてあってはならないものにしようとするんです。



医療技術がめざましく発展をとげていることが、さらに拍車をかけているのでしょう。医療が万能だと勘違いするほどに。



でもね。

死ぬじゃん。わたしも周りの人も。必ず。それは逃れようがない。





知人の死はそれをはっきりとさせてくれました。わたしもいつか死ぬじゃん。すべてを失う時がくるんだって。だったらそんなにたくさんのモノにこだわる必要もないし、死ぬ時がきたらぱっと手放せたほうが楽だなって。どんなに愛着がある人やモノも死んだら手放すことになりますから。


人がもっとも恐れるもの



まとめます。COVID-19を人が恐れるのは、未知であるからではなく、今あるものを失うことを恐れているからです。大切な人、今まで築いてきた功績、事業、財産、名誉…。そして「生きる」を失うことを恐れているのです。「生きる」を守るために恐れているのです。



その「生きる」を守るために私たちは何を犠牲にしているのでしょう?
その足元にあるものは何でしょうね?