わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

否定も肯定もない「ゆるし」が心地よい

今日のテーマは「ゆるし」です。「ゆるし」って複数の漢字がありますね。ざっと挙げると

許し
赦し
緩し
恕し

他にもありますが、ひとまずこのくらいで。「ゆるし」は心地よいです。そこへ行き着くのは大変なことですが、いったん腑に落ちるとものすごく楽になります。では、参りましょう。


ゆるしのきっかけ


わたし、BON JOVIが好きなんです。そりゃあもう、心臓を捧げてもいいって思うくらいに。(「これはキミが持っていたほうがいいよ」って心臓を捧げたくなるような笑顔で返されるでしょうけどね)なんでそこから始まるんだい⁉って思うでしょうけど、まぁ読み進めていってください。嫌ならお戻りを。



2019年11月に「Unbroken」という曲がリリースされたんです。NetflixPTSDに苦しむ退役軍人とその人々をサポートするわんこを追ったドキュメンタリー映画のために書き下ろされたものです。わたしはNetflixを契約していないので、観てはいないのですが。


Bon Jovi UnbrokenのPVはこちらYouTube




この「Unbroken」の歌詞の主人公は映画に沿って戦場でココロに深い傷を負った退役軍人です。この曲を聴くと自分のことのように感じて涙がでます。その歌詞の中にはこんなフレーズがあります。

I lie awake at night
With dreams the devil shouldn’t see
I want to scream but I can’t breathe
And Christ, I’m sweating through these sheets

引用元:Unbroken / Bon Jovi


悪魔でも見ないような夢をみて目が覚め
叫びたいのに息ができない
なんてこと、シーツは汗でびっしょり


このフレーズを聴いて考えたんです。もし身近な人がこんなふうに苦しんでいたらわたしはその人に何をしたいと思うだろう…?もしわたし自身だったら何を望むだろう…?って。




身近な人だったらその人へ何をしたい?



水をいれたコップを差し出して何も言わずハグしたいな。って思いました。シーツがびっしょりになるくらい汗をかいていたら、きっと喉が渇いているだろうと想像するから。


そして人のぬくもりは安心感を与えることがあるからハグをしたい。「あなたもわたしもここに居るよ」って言葉がなくても伝わるから。



わたし自身だったら何を望むだろう?


心配とか励ましとか慰めは望まないって思いました。


苦しむわたしをただゆるしてほしい。
何よりわたし自身にそうあることをゆるしてほしいって強く思いました。


そこから人はあるがままの自分であることのゆるしがほしいのに、そこに気づいていない、あるいは自分をゆるしたいのにゆるせないからより苦しむのだなと感じたのです。



折しもその頃、知人が病気になりました。

知人は以前にも大病をわずらった経験があり、あらたに病気がわかったことが相当ダメージを与えたようです。だからそのことを考えなくてもいいように前を向けるものを、病気を乗り越えられるようにってあるコミュニティ内で応援動画を作ることになりました。



勢いで参加したものの、「明るい気持ちになるものを」「笑えるもの」「気がまぎれるようなもの」「深刻な話はNG」という条件があり、「あれ?参加するところ間違えたっぽい」となったのですが…

知人はまた病気になってしまった、周りに迷惑をかけてしまうってひどく自分を責めているような気がしたんです。いつも周りに気遣いをしている方なので。だから責めるよりご自分をゆるすことに気づいてほしいって思い、コミュニティの企画とは別に動画を作って知人へ贈りました。



パワポのスライドショーを画面収録してBGMをつけただけの単純な動画でしたけど、気づきたてホヤホヤの気持ちはこもってました。いや、こめました。ありったけ。全部。


Bon Joviの曲からこうやって広がっていったのだから、何が気づきや行動のきっかけになるかなんて誰にもわからないことです。

否定も肯定もない「ゆるし」が心地よい



ゆるしに気づいたら「これって宗教だな」って思いました。自分で自分をゆるせないから代わりに自分をゆるしてもらえる存在が神や仏なのかもしれません。誰か(何か)にゆるしてもらえるから自分をゆるすことができるのかもしれないですしね。宗教は「苦しみ」からスタートしていて、だからゆるしがある、そんなふうにも思います。



キリスト教ではアダムとエバ(イヴ)が蛇にそそのかされ禁じられていた果実を食べたから、子孫であるわたしたちは苦しみという罰を背負っているとされ、仏教ではブッダが何不自由ない生活の外にあるもの(苦しみ)を知ったところから始まっていますから。



念のため書いておきますが、わたしは宗教を勧める人ではないです。行き着いた思想が結果として宗教と近いものだっただけです。そう思うと人の悩みや苦しむことの根源って時代が変わってもそんなに大差ないのでしょう。



モノや情報があふれているからこそより悩み苦しむのかもしれないですし。で、その根源って「ジャッジメント」だとわたしは考えます。




良い・悪いって決めたり評価するから苦しいんです。苦しむ自分なんてみっともないとかね。ダサかろうがかっこよかろうが自分は自分でしかないのにね。



ジャッジメントを手放す=ゆるしなんです。けど、ジャッジメントに慣れていると否定も肯定もないことが心地悪く感じたりします。「なんでジャッジメントしないの⁉」ってね。




わたしもそうでしたもの。話の内容に同意してもらえると思っていたのに否定も肯定もない返事をされて「反応悪っ!なんで同意してくれないの⁉」ってイライラしました。けど、相手が否定も肯定もしなかったからこそ、それが独りよがりな価値観を相手に一方的に押し付けていただけだと気づくことができたんです。




そこから少しずつですが、ジャッジメントを手放してゆるしを体感する経験を重ねることで否定も肯定もないところが心地よいと感じるようになりました。


となりでブツブツ文句を言っている人がいて嫌な気持ちになったとしても、「この人は文句が言いたいんだな。言わせておこう」と相手を拒絶することとは別のココロのシャッターをサッとおろすことができるようになったりね。




ゆるすことで自分と周りとの切り分けができるようになるから、心地よい場所に自分の身を置けるんです。それは「自分を大切にすること」と言い換えられるかもしれないですね。