わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

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「正解」「正しい」が息苦しく感じるワケ

結論からいうと、「正解」「正しい」とされるものと、自分の基準とが合っていないから息苦しく感じるんです。基準が違うんですもの、それを押し付けられても心地よくないでしょ?



それでも多くの人が「正解」「正しい」を求めるのは、迷わなくてすむからなんですよね。間違いがない。それに間違いだったとしても「正解」「正しい」としたもののせいにできるから、自分は責任を負わなくてすみますし。ラクなものです。



何かが違うと思うのにそれを無視して「正解」「正しい」に従っていると、ひずむのにね。では、本文へいきましょうか。



それ、ほんとうに「正解」?「正しい」?


インターネットでは「正解」「正しい」を使ったタイトルが目を引きます。たとえば、「これが正解!〇〇時のマナー」とか「アラフォーの正解〇〇コーデ♪」とか。新型コロナウイルス感染拡大関連では「正しく恐れる」とさかんに言われました。



出る杭は打たれる、横ならびがよしとされる日本の社会では、「正解」「正しい」とされるものに従ったほうが安心でラクに見えます。枠からはみ出ないほうが安全に過ごせるかもしれません。わたしもそう思っていました。




でもね。今は違和感しかない。「正解」「正しい」という言葉にざわざわします。それ、ほんとうに「正しい」の?って。




方丈記の出だしには「ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず」とあります。平家物語の冒頭は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」とあります。どちらも世の中に変わらないものなどないと説いているのです。



たとえば、天気。晴れもすれば曇りもあり、雨もあります。毎日同じ天気であるなんてことはありません。1日のなかでもにわか雨があったり突風が吹いたり、その時によって変わりますよね。季節だってそう。いつまでも春の陽気は続きません。同じように時代は変わり、世代が変わり、人は変わります。




だからね。変わらない「正解」「正しい」って存在しないんです。





あったとしてもそれはその人の中にある「正解」「正しい」で、万人共通の「正解」「正しい」ではないんです。考え方、価値観がそれぞれ違いますから。(あ、これはわたしの考えなので、万人共通の「正解」「正しい」があるとお考えになる方もいらっしゃるかもしれませんね。)




世の中の「正解」「正しい」に基準をおいていないから息苦しく感じる


わたしが「正解」「正しい」に息苦しさを感じるのは、世の中のそれに基準をおいていないからなんです。多くの人が「正解」「正しい」」と思うことでも、わたしが「違う」と思えば、それは「正解」ではないんです。



だから合わせないことにしました。自分を曲げてまで合わせることないです。心地よくないですもの。アラフォーに似合う「正解」コーデではなく、わたしが心地よいと思うコーデを選びたいんです。年齢にふさわしい「正しい」振る舞いではなく、わたしが心地よいと思う振る舞いをしたいんです。




でも、周りの人が気になる…という方もいらっしゃるでしょう。どんな目で見られるか、何を言われるか心配って。


それ、自分がコントロールできることじゃないです。
自分のコントロールが及ばないことを気にしてもどうにもならないです。





「あの人にこういう印象を持ってもらいたい」という自分の中の「正解」があったとしても、相手は違う印象を持つかもしれません。自分はウサギでいるつもりでも相手にはカバに見えたとか、自分の中の「正解」と相手が違う反応をした、つまり自分にとって「不正解」な反応をされるかもしれないのです。



どういう反応をするかは、相手が決めることです。自分じゃない。「不正解」だったらどうしようって気にすることは、いたずらにエネルギーを使うだけです。



心地よいかどうかを基準に


「正解」「正しい」があると人はどうしてもジャッジメントするんです。「正解」「正しい」に当てはまっているとOK、とかね。当てはまっていないと相手の意思や事情とは関係なく、無理やり当てはめよう、コントロールしようとします。相手にも自分と同じ「正解」があるものだという思い込みがそうさせます。



「自粛警察」とか「マスク警察」とかもそうですね。自粛する・マスクをするのが「正解」だから相手にもそれを求めるんです。でもね。ほんとうは自粛もマスクもしたくないんです、その人たち。好きな時に行きたいところへ行きたいし、気のおけない仲間と大きな声で笑いたいんです。飲み歩きたいんです。




けど周りが自粛やマスクをしているし、非難されたり排除されるのが嫌だから自分も合わせてガマンしているのにっていう気持ちがあるんです。今あるものを失うのは怖いですからね。




ココロの底で感じていることを表に出せないから、他者を攻撃するんです。他者をゆるせないんじゃなくて、ほんとうの気持ちをゆるせない自分に対する怒りの現れなんです。本人はそれに気づいていないんです。とんだとばっちり。




誰かを攻撃して満足してもそれは一時的なもので、また怒りがわいてくるんです。自分の気持ちに気づいていないから。他者を攻撃すればするほど自分を傷つけていることがわからず、「正解」「正しい」を求めれば求めるほど、望むものから遠ざかるんだけどなぁ。それって苦しくないかい?




周りや世の中の考えと自分の考えが違っていることにジャッジメントはいりません。「正解」「正しい」かどうかより、自分がどうしたいかです。心地よいと感じるところに身をおけばいいんです。最初は怖いと思うかもしれませんが、少しずつ練習すればいいんです。自転車みたいにね。