わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

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死について考える



希死念慮(きしねんりょ)ってご存知ですか?死にたい気持ちのことです。抑うつ状態にあるとしばしばそういう気持ちになる人がいます。わたしも「霞のように消えてしまいたい」と思うような状態が続いたことがあります。踏切で通り過ぎる電車を見ていると、吸い込まれそうになったり。



死にたい気持ちが強くて、実際に行動を起こす人もいます。本気で死にたいと思う人は、あらゆる手段を使って何が何でもやり遂げようとします。そして黙って実行します。人に話せば止められるから。今日のテーマは「死について考える」です。それでは本文へどうぞ。



死とはなにか




まず、死の定義から。死ってなんでしょうね?一般的には「呼吸が止まる」「心臓が止まる」「瞳孔反射の消失(光を当てても瞳孔が反応しない)」の3つがあることを医師が確認して死とされます。医師が死とするまでは、そういう状態であっても死じゃないんです。(医師の仕事って重大…)




脳死は脳全体の機能が停止し回復の見込みがない状態のことです。何もしなければ呼吸も心臓もやがて停止します。(植物状態は、脳の一部の機能が停止している状態で機械がなくても呼吸や心臓が動くケースもあり、時には回復することがあります。)




脳死は延命治療の発展の結果もたらされたものです。そして脳死を死と定義するのかどうかは、それまでの一般的な考え方が通用しないため難しい問題です。でね。ざっくりと調べたところ死の定義って明確にこれ!というものはないんです。その地域の文化や歴史によって微妙にちがっていて万人に共通する答えはないのです。




その人の意識がなく、カラダが動かない、冷たくなる、呼吸をしていない、精神もカラダも失われた状態を死と認識していることが多いでしょうけれど。機能が停止して動かなくなったカラダはやがて腐敗し、その形を失います。でもそれって死なのかなぁ?



いのちはめぐるもの




機能が停止したカラダは微生物などによって組織が分解され腐敗します。つまり、ほかの生き物に取り込まれて、別のいのちの一部になったということです。以前にも書きましたが、いのちは形を変えてめぐるものです。この世をめぐるために一時的にこの姿をお借りしているだけだから、死というものはないんじゃないかなと漠然と感じています。




いのちがどうしてめぐるのかはわかりませんが、わたしたちはラーメンのスープに浮いている脂みたいなもので、小さく分かれたり、いくつもつながって一つの形を作ったり、その時々で変わるだけなのです。




千の風になって」という歌が以前ヒットしましたね。その歌詞はまさにそのことが綴られています。(ラーメンのスープとは似ても似つかぬ表現で…。)わたしたちはときに風になり、雲になり、雨になり、はたまたコオロギや稲穂になって世界をめぐっていくのです。




でね。(この記事では便宜上、死ということばを使いますね)死にたい人って、今の自分をゆるせないのだと思います。自分というものに縛られて自分でいることが苦しくて逃れたくて、自分をゆるしたくて死を選ぶ。でも死を選ぶ自分もゆるせなくて、最後まで自分を責め続ける。




あらゆる角度から自分を責めていながら、ほんとうはゆるされたいと願っているような気がしてなりません。誰かにではなく、自分に。自分であることも、死を選ぶこともゆるしてほしいって。




そしてお葬式は残された人たちのためのものだと思います。弔うことで残された人たちの悲しみをなぐさめるものだと。どんな形のお葬式であれ、死者がどうこう指示することはできないですしね。遺言で希望を残したとしても、すべてがそのとおりになるとは限らないですし。(予算とか親族間の意見の相違とか、いろいろありますから。)




わたしは子どもの頃から「わたし」の証をどこにも残さないでいたくて、死ぬ時は誰にも知られずひっそりと死にたいって思っていました。ブログを書いていたら、それはもう「わたし」の証かもしれません。けれど、わいわいと騒がれるより静かに、というのは今も変わらないです。




どうしてそう思うのかは自分でもわからないです。ただ、死にたい気持ちがあって死について考えているのではないです。(死にたい人は死が目的なので、どうやって確実に死ぬかその方法について考えます。)子どもの頃からずっと、生まれてきた意味とか食べることの罪悪感とか、誰もわたしが納得する答えを持っていませんでしたから、それが自然と死について考える機会になったのでしょうね。。