わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

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人であるという定義を手放す



どうしてヒトは人であろうとするのかな、とふと疑問がわきました。人であろうとするから辛かったりしんどかったりするんじゃないかなぁと。自分であろうとする、自分にこだわるからしがらみが出てきたり、ほんとうにしたいことに気づけなかったりする。そんな気がしてきました。



今日のテーマは「定義を手放す」です。これ、哲学?哲学なのかぁ?余談ですが、高校生の頃通っていた学習塾の哲学の授業で「A論とB論どちらが良いと思うか?」と講師にきかれて「どちらにもそれぞれ特徴があるので、どちらが良いということはない」と答えたら、「あなたのように自分に意見を持たないのはダメだ‼」っていまだに解せないお説教をされました。


閑話休題。それでは本文へまいりましょう。



人であるという定義を手放す



COVID-19の感染拡大第3波がきたとかテレビで報道されていました。感染予防のために食事をするときもマスクを外さないように、ひと口食べたらマスクしてもぐもぐしなさいとか、それご飯美味しいの?楽しい時間なの?って思ってしまいます。もう胃ろう作れば?とか横暴なことも考えちゃう。



胃に直接食べ物を入れたらマスク外さなくて済みますし。その代わり食べる楽しみがなくなりますし別のトラブルが起こる可能性がありますけれど。感染を恐れるあまり本質を見失っていないかい?ってざわざわする、そんな日の朝、いつものように徒歩通勤していたら、ふと思いついてしまったのです。



わたしは自分を人と定義するのを手放したらいいんじゃない?って。



ヒトが人であろうとするから、感染を恐れるのかな、と。それは死を恐れ、失うことを恐れることで。ヒトである自分を失うことが恐ろしいからなのだろうと。ペットを含め動物のCOVID-19感染がわかったら、殺処分するのかな。BSE狂牛病)や鳥インフルエンザが流行したときのように。



そうすると、ヒトが生き残るための安全というのは何かの犠牲の上にあるもので。でも生き残りたいがゆえにまわりの生き物を排除していたら、それこそ生き残れないと思うんだけどな。世界はヒトだけで成り立つものでも、ヒトだけのものでもないから。



だからね。自分を人と定義することないな、と思うのです。ヒトとそれ以外って区別すること自体無意味だし、区別するからややこしいことになる。けれどヒトが人であろうとするがために、それを忘れてしまっている。それだけ目の前にあるものにとらわれているのだろうと思います。



それぞれが世界そのものであり、また世界の一部であり。人であろうとなかろうと、わたしがこうして今いるのは多くの手助けと支え、生命の上にあるからです。同じようにわたしは何かの手助けと支え、生命の礎になっているし、なるのです。だからわざわざ自分を人だと定義することないなって。



そうすれば、風にも鳥にもなれるし月の光にもなれます。雨音にも溶けあえる。カラダという境界線はあれど、意識は境界線を超えて自由に広がっていきます。菜根譚でいうこところの「万物はもともと一体である」に通じるものかもしれません。このことで定義って区別するためのものだって今さらながら理解しました。



病気を診断するときも定義に当てはまるかどうか照らし合わせますね、そういえば。定義とは基準と同義なのかもしれないですね。自分の行動基準も自分をどう定義するかから始まりますし。ただその定義にこだわるあまり、窮屈になっちゃう。それで悩みがでてきたり。



定義を手放せばいいって頭でわかっていても、ココロがそうさせない。そういうものだと強く縛りつけているし、それで安定してきたから。強い縛りは手放そうとしてパッと手放せるものではありません。自分とつながることをくり返していくうちに徐々に手放していくので、ふとしたことで手放したことに気づきます。




世間一般の定義も自分の中の定義も手放せば、なんというか、空を漂う雲のようでいられます。