わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)135

 

 

今朝は寒い。窓際にいると冷気が伝ってくる。上着を羽織ってひざ掛けを用意して過ごす。ヒートテックは必須。最近足指が冷たく、就寝時に布団の中でその冷たさにびっくりするので寝る前に足裏をマッサージすることにした。左右で痛いと感じる場所が違う。オイルをつけてゆっくりじっくりマッサージ。レッグウォーマーも着ける。そうすると比較的早く足先が暖かくなって寝付きやすい。

 

 

同僚は布団乾燥機の温めモードを布団に15分くらいかけてから寝ると話していた。それもアリだ。わたしの場合は、足先そのものを温かくしたい。カラダの内側から、といえばいいのか。布団が温かいと却って足先の冷たさが気になる。子どもの頃は湯たんぽを使用していたが、寝ている間に蹴飛ばしてしまう。布団が温かくなりすぎて寝苦しくなるらしい。

 

 

足裏マッサージは、かかとの乾燥対策で保湿オイルをぬるついでに始めたのだがわたしに合ったらしい。マッサージ器具の購入も検討したが例によってすぐに飽きてしまいそうなので見送る。

 

 

「わたしはあの人がキライ」と認めたら、それまで相手に対し湧き上がっていた不快な感じが和らいだ。昨日までその人の名前が聴こえてくるだけで自分の中がざわついてイヤな感じになっていたのに、それが小さくなった。相手を嫌うのはわたしの都合。それを認めたくなかっただけなのだと理解する。それは相手のせいではない。

 

 

相手がわたしをどう思って、どう態度に現すのかは相手の問題である。相手の行いが今でも面白くないし、不愉快だ。でもそれはわたしが相手を嫌っているからであって相手のせいではない。そう思うとわたしは自分が思っている以上に人の好き嫌いがあるようだと気づく。分け隔てなく、とかまったくない。好きなものは好きだし、キライなものはキライだ。

 

 

食べ物もそう。キライなものはいっさい手を付けない。堪えて食べようなどと微塵も思っていない。受け付けられない。加工されていたり、匂いや味がわかならければ食べられるものもあるが限られている。キライなものを嫌だと思いながら食べるより、美味しいものを美味しいと思って食べるほうが精神衛生上もよろしい。どうやら人に対しても同じらしい。

 

 

キライなものを無理して好きになるなんて、わたしにはできないしその気持ちを抑え込むとどこかにひずみができる。だったらいいじゃないか。キライならキライで。相手がそれをどう思うかなんてわたしにはどうにもならない、コントロールできることではないのだ。わたしのできることをしよう。

 

 

今日は掃除のついでに冷蔵庫の位置を変えようと思っている。年末年始の間、引きこもっていた時間が多かったせいか、少しお腹やお尻が大きくなったらしい。甘味もそれなりに食べているし。。。冷蔵庫の位置を変えることでお腹やお尻が狭いところでつっかからないようにしたい。適正な体型維持も大事だが、ひとまず。

 

 

 

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)134

 

 

初詣に行ってきた。行列ができる三が日を避けたが思ったより参拝客がいた。昨年はお守りは買わなかったが、一昨年と同じものを今回は買った。その神社は正月限定デザインのお守りなど趣向を凝らしていて商魂たくましいというか商売上手だなといつも思う。それだけ加護が篤いのかもしれない。

 

 

ある本屋が閉店するのを知って最後に行ってこようと初詣のあとに足を運んだ。店頭に貼り紙があり閉店後、別の書店に引き継がれるようなことが記載されていた。あまり行かなくなったけど、残るのはありがたい。本屋は落ち着く。たくさんの本が並べてあって選ぶのは大変で、だがゆっくり見て回るのが好きだ。誰にも邪魔されず静かに好きなように見て、手にとってパラパラと中身を見ることができると尚いい。店内に椅子があったらずっと居座ってしまうだろう。

 

 

この年末年始はほとんど外出せず読書三昧だった。運動不足もいいところである。そうなるように自分で仕向けた。インプットばかりでそろそろアウトプットも必要かもしれないと漸く思い至ったがそれは後付の理由。きっかけは気に入るものがないなら自分で作ればいいと考えたことだ。どうやって作ればいいのか検索しているうちに辿り着いたものに興味を惹かれ、さらにあれこれ情報を集めた。

 

 

そのうちに色々とアイデアが浮かんできて、あれもできるかも、こういうものがあればいいかも、と想像が広がった。熱に浮かさたとも言う。その一方で、熱しやすく冷めやすいわたしに続くだろうか?という考えがよぎる。時間が経つとそれを補うかのように費用のことや飽きっぽさが気になりだしてやらない理由を探し始めた。それでもやってみたいと思うなら一度やってみたらいいという結論がでたので、それは一晩置いた。

 

 

翌朝になって、一旦やってみようと改めて思った。続くかどうかわからないから最低限のものだけ揃えて、まずは作ってみること。それで飽きるならOK、続くならOK。「続かない」と無意識にだけど強く思うなら、その通りになるだろう。これまで続かなかったものの多くは、続けたくないという無意識の思いが現れただけ。趣味であろうと仕事であろうと。

 

 

先日、セルフでヒプノセラピーをやってみた。と言っても知識も経験もないので「なんちゃって」だが。誘導に従って催眠状態に入ったのかよくわからないが、とめどなく涙が溢れた。悲しいとか苦しいとか嬉しいといった感情とは関係なくただ涙が流れる。あとはひたすら青色のイメージだけ。過去にヒプノセラピーを扱う人にさわりだけ体験させてもらったことがあり、その時も涙が自然と出てきたと思い出した。

 

 

別の日に別の誘導で同じようにやってみたが、夢の入口に入ってしまい誘導とは異なる方向に行ってしまったので中断した。興味本位でやってみただけだが、たまに自分のメンテナンスとして行うにはいいと思った。強いて言えばリラックスした状態になりたいだけで、特に深刻な悩みや困りごとはないので直接セラピストを頼る必要がない。リラックスする、自分を緩める手段はたくさんあったほうが助かる、それだけである。

 

 

前述のやってみたいこともだが、セルフのヒプノセラピーもわたしの好奇心によるものだ。どんな結果であろうとやってみるだけでそれは経験値になる。

 

 

 

 

 

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)133

 

 

 

新年おめでとう。昨日も記事を書いたが、今日も書こうと思う。書けることがありがたい。昨日から今日にかけて1年を振り返ってみた。毎朝書くノートと記事をササッと見返して、2023年がどういう1年だったか考察してみた。まずノートは自分の書いた文字が読めない。良く見れば何を書いたかわかるが、ぱっと見るだけではなかなか判別が難しい。

 

 

内容は、起床時の状態や天候、洗濯物が乾いているかなどから始まって、その日の行動や仕事の段取り、人間関係のことなど自分のその時感じたこと、考えたことなどを書き連ねている。そのパターンが常で、固定されているのが我ながら面白いと思った。春先から真夏にかけては繁忙期でもあり、ノートに書く行数が少なめになっていた。週1でアルバイトもしていたし色々と追われていたんだな。

 

 

ブログの記事も同じように春先から真夏は更新が滞っていた。月に1回程度のこともあった。それだけ自分に余裕がなかった。秋口のあたりから週1更新になって、それが今も定着している。更新が滞りつつも続けられているのだから、我ながら大したものだと思う。書くことで思考や感情の整理ができる。わたしはいつもそれで助けられているから続けられるのだろうと考えている。

 

 

感情が揺れるのを殊の外気にするのも特徴だと思う。それは生育環境のせいなのか、そう学習してきたからなのか、感情が揺れることで自分を見失うことが怖いのだ。だから感情の動きやそこに至るプロセスを推察することが常になっている。これもまたわたしが生きるために与えられたものなのだ。ありがたく活用する。

 

 

同じ型で似たりよったりの内容が書いていあり、同じところでぐるぐると停滞して成長していないのでは?とも思った。時々突き抜けたように理解することがあっても、また同じところへ戻ってきているような、そんな印象を受けた。それだけ自分を見失うという恐怖が根深いのかもしれない。それがわたしをわたしたらしめているとも言える。

 

 

わたしにとって重くて頑丈な足かせを外したことは2023年の大きなことだ。それを背負う自分をゆるそうと思えたからの行動だった。無事に外すことができたのがありがたい。それによって周りに多大な迷惑をかけたのも事実、何を言われても仕方がない。彼らがわたしの人生を代わりに背負うことはないのだから、わたしが決めたことはわたしが引き受けるのみ。

 

 

こうやって書いていると、わたしは器の小さな人間だとつくづく思う。小さいなりにやっていくしかない。わたしの人生が完成するまでわたしはわたしに寄り添っていくだけ。未来を思い描いてその通りになるように進めるより、今、自分の足元を踏みしめて行くことがわたしには合っている。なんとなくこっちと緩く方向を設定するだけで充分。そのほうが修正が利きやすい。

 

 

わたしには揺るがない芯、軸なんてないのかもしれないね。それでもわたしはわたしを拠り所にして進むだけ。

 

 

 

 

 

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)132

 

 

「AIタイトルアシスト」機能を試してみた。なるほど、確かに記事を読みたくなるようなタイトルが生成されている。収益や集客目的の人たちには随分と助かる機能だろうと思った。キーワードを組み合わせたりすることに時間をかけずに記事の内容に注力できる。キーワードを設定してタイトルから本文までAIに任せてしまえば、さらに労力はかからない。楽だな。わたしは自分が思うままに書きたいから使わないが。

 

 

三者を通して受け取りたくないものを渡された。相手もその第三者を通せばわたしが受け取ると見越した上でそうしたと思われる。正月三が日の間をつつがなく過ごせるようにあれこれ準備したのが、それによって狂わされた。わたしの中の小さなわたしが「こうしたかった」とずっと文句を言っている。

 

 

受け取ったこと自体が不満なのか。その相手だから不満なのか。第三者を通したからなのか。全部だ、たぶん。選択の余地を与えられなかったことが最も嫌だったのだろう。第三者を通すことで断る選択肢がなかった。受け取る物自体も望んだものではない。第三者は、ありがたいことにこちらの事情を慮って相手に物を減らすよう仕向けてくれたようだ。

 

 

渡してくる物を選ぶこともできず、相手の都合を一方的に押し付けられたことが不満だ。自分を満たすためにこちらを都合良く利用しているように見える。自分の都合に巻き込まないでほしい。放っておいてほしいのにそうされないことが、とにかく嫌だ。わたしがそうはっきりと伝えたわけではないから尚更なのだろう。この際、関わらないで欲しいとはっきり伝えようか。

 

 

関わらないで、だと強い言葉になるからそっとしておいてほしいくらいにしておこうか。却って構ってきそうだが、総じてわたしは尊重されなかったことがゆるせないのだろう。小さなわたしの「こうしたかった」がまだ叶えられていないから、少し荒れそうだ。必ず叶えるからもう少し待ってと伝えている。ないがしろにしない。約束する。小さなわたしは一度言い出したらきかない。放っておくと体調を崩したりする。

 

 

今日は大晦日だ。なんだかんだと1年が終わる。冬休みの宿題と称して持ち帰った仕事も2時間かからず終わった。時間がかかるので暇を見つけてやって欲しいと言われていたが、すんなりと終わったので拍子抜けした。不足している箇所は休み明けに対応する。宿題が終わったから好きなように正月休みを過ごせばいい。それこそ小さなわたしを満足させようじゃないか。

 

 

掛け布団を洗濯した。すっきり爽やかに年越しの夜を過ごしたいからだ。あいにく今朝は雨模様でこんな陽気に洗濯するのもどうかと思いつつ寝るまでに乾けば良いからと洗濯機を回した。洗濯ネットに入らず、本来はコインランドリーに持っていくようなものなのかもしれないが、まぁなんとかなるだろう。時間はまだある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)131

 

 

ここ数年クリスマスの時期は寒波がやってきている気がする。寒い。今朝も暖房がないととても過ごせない。そして乾燥しているので加湿器を出した。今も部屋の湿度は30%台である。うるおい大事。

 

 

先週はアイロンがけに手をつけなかった。何かと理由をつけてしなくていいようにしていた。今日はできそうな気がする。いやする。午前中のうちにやっつける。ササッとトイレ掃除や気になった箇所のホコリを払ったし、この流れで済ませてしまう。

 

 

わたしは自分を見失うことをとても恐れている。人や感情などの波にのまれて自分がわからなくなるのがとても怖い。そして「怖い」と感じるわたし自身がゆるせない。わたしはそんな自分を罰しなくて済むように人や感情から距離を取る。自分と他者との境界線が曖昧だからだと評する人もいる。だが、境界線の位置は人それぞれ。快適な距離は異なる。

 

 

波にのまれて尚自分を見失わずにいられるほどわたしは丈夫じゃない。波にのまれない場所にいるからこそ、今のわたしがある。植え付けた恐怖がわたしをそう導いた。なるようになったとも言える。その場所からしか見えない景色がある。それを誰かと共有したいという欲が薄い。それも怖いのだ。自分が侵食されてしまうようで。わたしはとても脆いから。

 

 

幼少期に(わたしにとって)強烈な経験をしたのかもしれない。わたしの領域はわたしの許可なく勝手にズカズカと土足で踏み込まれ、抵抗する間もなくひどく荒らされてしまった。とても悲しくて辛くて。相手の理不尽な行いに抗うことができなくて。そんなわたしが不甲斐なくて。だからわたしはわたしを守ろうと幾重にも頑丈で強固なシャッターを設置した。

 

 

記事を書きながら、わたしはとても辛かったのだと感じている。無条件に信頼を寄せる相手からの仕打ちに。尊重されなかったことに。自分を守れなかったことに。こんなにも傷ついて。わたしは子どもに同じことをしていないだろうか。とても不安になる。勝手な願いだが、どうか健やかであってほしい。

 

 

幼少期と変わらず無力な部分もある。だが今はそれを補える知識や情報を得て使うことができる。周りと感情を分かち合うことはこの先も難しいだろう。それでいい。そのままのわたしで行こう。周りに合わせて無理にそれを行うのは、苦痛だ。合わせられないものは合わせなくていい。

 

 

できないからと嘆くのではなく、できない自分を大切にしたい。感情を分かち合わないからこそできることがある。こうして自分を俯瞰したり、ね。

 

 

 

 

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)130

 

 

とある美容脱毛サロンが破産手続きを開始したというニュースを目にした。かつてわたしもお世話になったサロンである。会員には破産手続き開始のメールが配信されているというが、わたしのところには届いていない。会員サイトにログインできるが、もう数年通っていないので情報が削除されているのかもしれない。

 

 

これから希望を持ってサロンへ通うつもりであったあるいはその途中な人々はさぞかしびっくりしただろうと思う。従業員然り。それらを含めた覚悟をもって経営陣は決断したのだろう。我が身を重ね、自分の行いの結果を真摯に受け止めこれからを生きねばと再確認する。

 

 

 

今の状況がゆるせないから人は何か・誰かを責めるのだろうと思う。思うようにいかない、置かれている状況を自分が受け容れられないから、それを自分にゆるしたくて何か・誰かに映る自分を責める。他者を裁くということは自分自身を裁くことだと思う。思い出した。日々の生活に追われてすっかり忘れていた。ここ最近続いていたことは、それを気づかせるためだったと意味づける。

 

 

 

わたしがロストワンになったのは、わたしを守るため。きっかけは親の行いだが、決して親のせいではない。わたしを「いらない子」にしたのは自分だ。そう自分を定義してわたしを守ってきた。感情を抑え目立たないように過ごしてきたのも。それだけわたしは傷つくのが怖いのだ。結果としてそれが却って自分を益々傷つけていたのだけど。

 

 

 

ホントは「いる子」でいたいのに「いらない子」でいようとしていた。これまでは。けど、いつでもわたしはわたしに寄り添うと腑に落ちたら、「いらない子」でも構わなくなった。そうしたら、感情が落ち着いた。揺らぐことが減った。わたしはわたしをよすがにできたのだと思う。おなかの中心に自分が据えられた感覚がある。それはとても暖かさを感じる。

 

 

 

きっとそのままのわたしを受け容れたということなのだろう。仕事においても、自分でなければから、他の人でもできるようにシフトしていくことが必要だと考え始めた。ずっとわたしがその仕事を担うわけではない。事業はその先もつづくのだから。残された時間でどこまでできるかわからないが、次の人のためにある程度の土台は作っておきたい。

 

 

 

ある手続きがほぼ完了した。状況がよくわからないまま「これで終わり」と言われて、これまであったガイドラインが急に消えどうすればいいのか分からなくなった。ふわふわと浮ついた感じがして困惑する。これまでと大きく変わることはないと頭ではわかっているが、浮遊感が収まらず、まずは買い物をしようと漠然と思った。

 

 

 

マフラーが欲しかったので、見に行くついでにアウターやルームソックスなどを購入し、会計をする時になってようやく現実に帰ってこれた感じになった。ふわふわとしながらも必要なものかどうかは確認できていたようだ。本来はアウターなのだろうが、部屋で着るための温かい上着や手触りの良いルームソックスなど、揃えたいものが揃えられたのだから。

 

 

 

わたしが冬の衣類に求めるのは、暖かさ・軽さ・肌触りの良さである。ウールは暖かいが肌触りがよろしくない。ちくちくとする。寒いからと子どもの時は毛糸のパンツやらタイツやらを履かされたがとにかくちくちくが嫌でたまらなかった。今でもウールのカーディガンやマフラーはちくちくが嫌で避ける。No More ちくちく である。

 

 

 

結局マフラーは購入を見送った。いくつかの店を見たがどれもちくちくが気になったからだ。幸いまだ凍えるような冷え込みの日が少ないのでマフラーは必須ではない。気に入るものに出会えるまで待とうじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

記事を読んでくれる方、☆をくれる方、いつもありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)129

 

 

胃腸の調子が悪かった。お昼ごはんを食べていたら「もうこれ以上無理です」と胃が拒絶してきた。食べたくても食べられない。こりゃいかん。今日はさっさと寝ようとその日はいつもより早く就寝した。その後数日は水分を多めに摂り、消化の良いものを少し食べるだけにして過ごした。だいぶ回復したと思うがまだ本調子ではない。

 

 

食事量を半分くらいにしてゆっくり食べる。このところ色々と立て込んでいるのと急に寒くなったのとで休養がほしいとカラダが申請してきたのだろう。週末はお腹の休養を優先した。

 

 

アダルトチルドレンはアルコールやギャンブルなどに依存している親のもとで育ち心に傷を負った子どものことを指すという認識だったが、もっと広い範囲で使われているのだとこの前知った。機能不全家族で育った子どもたちのことだとある。

 

 

前回の記事の続きで言えば、わたしもその一人なのだろう。じゃあ健全な家族って具体的にどういうものなんだ? その子どもにとって健全な家族ということであれば子どもの数だけモデルあるわけで。標準的なんてものはないし、皆どこかいびつさを抱えて家族を作っているのじゃないかと思う。

 

 

わたしのように感情を抑えることで生き延びたアダルトチルドレンは、ロストワンと呼ぶらしい。確かに必要以上に干渉されることや内面へズカズカと踏み込もうとされると拒絶する。放っておいても大丈夫だと思われている。初めて取り組むことでも初日の僅かな時間で「大丈夫だね」と判断されて放置されるのはわたしの常だ。そして期待どおり適応する。

 

 

実際は不安だし、もう少し寄り添ってほしいと思う。勤め始めて数日しか経っていないのに「ずい分前から居る人のようだ」「落ち着いて対処している」と言われるのは心外だ。自分の内面と外から見えるものが一致していない。周りには何ごともないように映っていても、わたしの中では混乱や戸惑いがあったりするのだ。

 

 

だが、感情を抑え続けた影響か自分の感情がわからないことがある。特に「悲しい」は顕著だ。1年前の出来事がようやく「悲しかった」のだと理解したのはつい最近である。わたしの中の「悲しい」を受け止める器(認識すること)が機能しづらいのだ。それを嘆くのは嫌だ。成育していく過程で獲得したスキルなのだから誰のせいでもない。

 

 

ときに「もっと情熱的に!」「もっと内面を見せて!」と請われるが、わたしにはハードルが高い。時間をかけて少しずつ。この人なら大丈夫と思う相手に。精神的なつながりを求めながら諦めたわたしは他人に心を開きずらい。だからまず、そんなわたしとわたしは繋がろうと思う。わたしとの精神的なつながりが深く揺るぎないものにならないと次に進めない。

 

 

誰かに期待したり望むよりわたしはわたしに寄り添いたい。それを実践している時点でわたしはもう、ロストワンではない。本質は変わらないだろうけど。クリフトンストレングスで内省や慎重さ、適応性が高いことに改めて納得する。そして一連の気づきをもたらした周りの人たちへ感謝を。