わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)129

 

 

胃腸の調子が悪かった。お昼ごはんを食べていたら「もうこれ以上無理です」と胃が拒絶してきた。食べたくても食べられない。こりゃいかん。今日はさっさと寝ようとその日はいつもより早く就寝した。その後数日は水分を多めに摂り、消化の良いものを少し食べるだけにして過ごした。だいぶ回復したと思うがまだ本調子ではない。

 

 

食事量を半分くらいにしてゆっくり食べる。このところ色々と立て込んでいるのと急に寒くなったのとで休養がほしいとカラダが申請してきたのだろう。週末はお腹の休養を優先した。

 

 

アダルトチルドレンはアルコールやギャンブルなどに依存している親のもとで育ち心に傷を負った子どものことを指すという認識だったが、もっと広い範囲で使われているのだとこの前知った。機能不全家族で育った子どもたちのことだとある。

 

 

前回の記事の続きで言えば、わたしもその一人なのだろう。じゃあ健全な家族って具体的にどういうものなんだ? その子どもにとって健全な家族ということであれば子どもの数だけモデルあるわけで。標準的なんてものはないし、皆どこかいびつさを抱えて家族を作っているのじゃないかと思う。

 

 

わたしのように感情を抑えることで生き延びたアダルトチルドレンは、ロストワンと呼ぶらしい。確かに必要以上に干渉されることや内面へズカズカと踏み込もうとされると拒絶する。放っておいても大丈夫だと思われている。初めて取り組むことでも初日の僅かな時間で「大丈夫だね」と判断されて放置されるのはわたしの常だ。そして期待どおり適応する。

 

 

実際は不安だし、もう少し寄り添ってほしいと思う。勤め始めて数日しか経っていないのに「ずい分前から居る人のようだ」「落ち着いて対処している」と言われるのは心外だ。自分の内面と外から見えるものが一致していない。周りには何ごともないように映っていても、わたしの中では混乱や戸惑いがあったりするのだ。

 

 

だが、感情を抑え続けた影響か自分の感情がわからないことがある。特に「悲しい」は顕著だ。1年前の出来事がようやく「悲しかった」のだと理解したのはつい最近である。わたしの中の「悲しい」を受け止める器(認識すること)が機能しづらいのだ。それを嘆くのは嫌だ。成育していく過程で獲得したスキルなのだから誰のせいでもない。

 

 

ときに「もっと情熱的に!」「もっと内面を見せて!」と請われるが、わたしにはハードルが高い。時間をかけて少しずつ。この人なら大丈夫と思う相手に。精神的なつながりを求めながら諦めたわたしは他人に心を開きずらい。だからまず、そんなわたしとわたしは繋がろうと思う。わたしとの精神的なつながりが深く揺るぎないものにならないと次に進めない。

 

 

誰かに期待したり望むよりわたしはわたしに寄り添いたい。それを実践している時点でわたしはもう、ロストワンではない。本質は変わらないだろうけど。クリフトンストレングスで内省や慎重さ、適応性が高いことに改めて納得する。そして一連の気づきをもたらした周りの人たちへ感謝を。