わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)133

 

 

 

新年おめでとう。昨日も記事を書いたが、今日も書こうと思う。書けることがありがたい。昨日から今日にかけて1年を振り返ってみた。毎朝書くノートと記事をササッと見返して、2023年がどういう1年だったか考察してみた。まずノートは自分の書いた文字が読めない。良く見れば何を書いたかわかるが、ぱっと見るだけではなかなか判別が難しい。

 

 

内容は、起床時の状態や天候、洗濯物が乾いているかなどから始まって、その日の行動や仕事の段取り、人間関係のことなど自分のその時感じたこと、考えたことなどを書き連ねている。そのパターンが常で、固定されているのが我ながら面白いと思った。春先から真夏にかけては繁忙期でもあり、ノートに書く行数が少なめになっていた。週1でアルバイトもしていたし色々と追われていたんだな。

 

 

ブログの記事も同じように春先から真夏は更新が滞っていた。月に1回程度のこともあった。それだけ自分に余裕がなかった。秋口のあたりから週1更新になって、それが今も定着している。更新が滞りつつも続けられているのだから、我ながら大したものだと思う。書くことで思考や感情の整理ができる。わたしはいつもそれで助けられているから続けられるのだろうと考えている。

 

 

感情が揺れるのを殊の外気にするのも特徴だと思う。それは生育環境のせいなのか、そう学習してきたからなのか、感情が揺れることで自分を見失うことが怖いのだ。だから感情の動きやそこに至るプロセスを推察することが常になっている。これもまたわたしが生きるために与えられたものなのだ。ありがたく活用する。

 

 

同じ型で似たりよったりの内容が書いていあり、同じところでぐるぐると停滞して成長していないのでは?とも思った。時々突き抜けたように理解することがあっても、また同じところへ戻ってきているような、そんな印象を受けた。それだけ自分を見失うという恐怖が根深いのかもしれない。それがわたしをわたしたらしめているとも言える。

 

 

わたしにとって重くて頑丈な足かせを外したことは2023年の大きなことだ。それを背負う自分をゆるそうと思えたからの行動だった。無事に外すことができたのがありがたい。それによって周りに多大な迷惑をかけたのも事実、何を言われても仕方がない。彼らがわたしの人生を代わりに背負うことはないのだから、わたしが決めたことはわたしが引き受けるのみ。

 

 

こうやって書いていると、わたしは器の小さな人間だとつくづく思う。小さいなりにやっていくしかない。わたしの人生が完成するまでわたしはわたしに寄り添っていくだけ。未来を思い描いてその通りになるように進めるより、今、自分の足元を踏みしめて行くことがわたしには合っている。なんとなくこっちと緩く方向を設定するだけで充分。そのほうが修正が利きやすい。

 

 

わたしには揺るがない芯、軸なんてないのかもしれないね。それでもわたしはわたしを拠り所にして進むだけ。