わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)146

 

 

先週の金曜日午前中は嵐だった。強風と雨でずいぶんと濡れてしまった。余力があればお遣いに行こうと思ったが、荒天の中を無理して行くことはないと考え直した。

午後、ふと窓の外を見れば雲のない青空が広がっていた。

昨日・今日と春をすっ飛ばした陽気だ。お陰でエアコンのフィルターやサーキュレーター、加湿器の手入れをすることができた。ずいぶんと汚れていたので、すっきりさせることができて何よりである。

 

 

今日で3月はおしまい。明日から4月。何とか新しいシステムも稼働できそうである。細かいところは動かしながらFixしていく。

雇用契約が更新されていないが、引き続きで良いのだろうか?

ヘラっとしながら後任者が見つからないと言われた。うん、知ってる。面接手伝ったのわたしだし。

もう少し道を均してからじゃないと、引き継ぎも難しいかなと感じているし、丁度いいと思っている。

 

それより、その態度が気になった。相手にとってわたしの価値はその程度なのだな、と。

知ってたけど。再確認した。従業員に頭を下げるなんて、当人にはありえないことなのだろう。むしろこちらが相手を「その程度」なのだなと評価した。

 

 

何をしても不満を漏らす人はいるし、わたしは自分のできることを見つけて粛々と進めるだけ。誰かの行いに腹を立てるなら、違うことにエネルギーを使いたいかな。

先日、注文したものが届かないから納期を問い合わせたら、先方から発注が漏れていたと連絡があった。これまでのことを鑑みると、そうかなーと予想はついていたので、感情は揺らがない。

それに、そういう時は腹を立てるより、そのまま状況を受け容れた方がスムーズだったりする。件のものは、4月以降の納期と案内されたが、結果として数日で納品された。

寛容なのではなく、興味・関心が薄いだけだと思う。「いつものことね」と。

 

 

「呪いのことば」なるモノがある。わたしにすれば「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」だろう。ネットで検索すると「毒親」に引っかかる。

毒親」にしろ他の言葉にしろ、それらは今の自分を正当化するための免罪符のように見える。それがないと自分の立ち位置、存在が不安定になるのだろう。

「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」は親の免罪符(都合)だ。それを子どもに押し付けているだけ。子どもをコントロールするためのことば。

子どもにとっては、気持ちや意思を蔑ろにされ、思考や行動を縛る「呪い」。

 

 

「我慢しなさい」と言われて育ったのだから、我慢強いのは当然なのかもしれない。とはいえ、我慢強いとは思っていないが。

今、こうしてこのことを綴るのは、自分の中のわだかまりを精算しているのかもしれない。

「呪いのことば」は今のわたしには無効である。けど、それがあったから今の為人が作られたとも思う。