わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

安全って何?



COVID-19感染拡大防止策として、マスク着用を推奨するポスターが商店街などで貼られているのを目にします。「お客様と従業員の健康と安全のためにご協力お願いします」と書かれていました。そこでね、安全ってなんだ?と疑問を感じたんです。感染を抑えることの安全ってなに?拡大することのリスクって?



世間とわたしの前提が違うから疑問を感じるんだな、と。今日のテーマは”その定義は「正しい」のか?”です。では、本文へ。





どうして人がCOVID-19の感染を恐れるのかは、<COVID-19と知人の死から見えた人がもっとも恐れるもの>という記事でも書きましたが、失うことが恐いからなんです。大切にしているもの、手放したくないものを失うことが。人、財産、社会的地位、名誉、自分…今あるものすべてを失うことが。




どれも一時的なものにすぎません。「死」はいずれやってきます。誰にも等しく。わたしたちの姿は借り物で、「死」がきたらこの世にお返しするものです。それがいつかは誰にもわかりませんし、できるだけ遠いものであってほしいと人は願っています。できればずっと持っていたい、ずっと自分でありたいとすら願います。




わたしたちの姿をお返しすること「死」は、生まれた以上避けられないことですが、姿をお返しすることはほんとうに「死」で、すべてを失うことなのでしょうか。





多くの人は、「死」を終わりだと認識しています。その先はない、終着点だと。死んだあとのことは考えてもわかりません。明確な答えもありません。だから終わりととらえるのかもしれませんね。(わたしも少し前までそれを疑っていませんでした。)




でもね。姿をお返しするだけです。そしてまた違う姿の一部になるだけです。わたしたちは、生きるために食べます。それは、ほかの生き物のいのちをいただくことです。食べるとは、ほかのいのちが姿を変えてわたしたちの一部になる、ということです。同じようにわたしたちもいずれ姿をお返しして、ほかの生き物のいのちの一部になりめぐっていくのです。





だから「死」はあってないようなもの。いのちは形を変えてめぐっていくものだから、一時的にわたしたちの姿をしているだけなのです。…と、わたしは感じているので、COVID-19の感染拡大があろうとなかろうとなるようにしかならないし、いずれこの姿をお返しするのだからどうしてそんなにも徹底して排除したがるのかなぁ。と違和感があるのです。





マスクを着用したがることも、やたら消毒したり、接触を避けることも、わたしには異様で心地が悪い。それが安全だとも思えないのです。安全ということばで何かを覆い隠しているような、そんな感覚です。その覆い隠しているものこそ、必要で大切なんじゃないかなぁと。





フランスでは、COVID-19の感染拡大を受けて再びロックダウンすることになりましたね。でも、抑えつけられているのは、COVID-19ではなく人です。テレビではコメンテーターが「感染拡大はウイルスの変異と若者たちの気の緩み」と称していましたが、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」を強要し続けていれば、それこそ破綻して人が、国が滅ぶと思うのです。





第二次大戦時の日本のように、自ら破滅を招いているような。そんな風に見えます。だから、冒頭のポスターの「安全」ってなに?と感じるのです。それも「死」のとらえかたが違うからなのでしょうね。あってはならないものではなく、共にあるもので敵でも攻撃するものでもない。でも今の世の中では、それはマイノリティなのでしょう。。。