わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)128

 

 

「思いやりがない」」「冷たい」「淡白」「生活感がない」と言われる。わたしの本質なのだろう。感情の揺れが相手にわかるほど表に出ず、総じて人間味が薄いと思われているらしい。他者の価値観にわたしをあてはめたら、である。

 

 

底が知れないと怖がるか面白いと思うのか。前者の方が多いらしい。蛇蝎のごとく激しく嫌われることもある。だが、自分をねじ曲げてそんな相手に好かれようなどとは微塵も思っていない。多少傷つくが、それならそれでいいかと受け容れる。

 

 

考えようによっては、相手が遠ざかることで面倒なことが一緒に離れていくのだから運が良いとも言える。わたしが相手の要求・期待どおりではない、相手の価値観に沿わないのを勝手に嫌悪しているのだから。

 

 

嫌悪とまではいかないが、できるだけ距離を取るようにしている相手がわたしにもいる。母親だ。長子を理由に我慢を押し付けられたという思いが強い。ちょっとしたことで機嫌が悪くなり、だが少しすると何ごともなかったかのように戻る。それが怖かった。どこにスイッチがあるのかわからないから。

 

 

「思いやりがない」「冷たい」は母から子どもの時分に言われた。求められたのは親の価値観、その時の親の気分や状況に相応しい「いい子」であるわたしで、わたしじゃない。その時々によって「いい子」の基準が変わるのだ。それがわたしを抑圧してきたのだろうと今は思う。

 

 

 

事あるごとに我慢を強いたり、誰かと比べたり。一方的に要求ばかり突きつけてきた。テストで100点を取ればそれが当たり前なのだという。こんなこともできないのか、人目悪い、みっともないなど日常的に言われた。母親にとっては世間の目が全てで、周りからどう見えるのかが重要だった。

 

 

 

今さら責め立てることはしない。ただ静かに距離を置くだけ。責めたからといって過去が変わるわけでなし、過去のわたしを否定することにもつながる。その過程が今のわたしを形づくっていると思えば、ね。母親はずっとそうやってきたのだ、相手の価値観を否定したところでどうにもならない。

 

 

 

毒親という言葉をあてはめるのは違う気がする。その言葉は相手のあり方を否定するように感じる。相手にもそうしてきた理由があるのだから。相手を否定して自分を正当化する必要がわたしにはない。周りに認めてもらう必要もない。わたしがわたしを認めていればいいのだ。いつでもどんな時でも。

 

 

 

その過去は人間関係の構築を困難にするかもしれないが、それだけがすべてではない。人間関係をうまく築こうとしなくてもいい。むしろしない。去る者は追わず、だ。そういうところが人間味が薄いと思われる所以なのかもしれない。感情もちゃんとあるんだけどねぇ。