わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)127

 

 

今朝はいつもより1時間ほど遅く目が覚めた。昨夜、夜更かししたから当然なんだけど。それでもハッと目が覚めるまでわりと深く眠った感じである。夜中に同居人が帰ってきて、何やら誰かと話していたことはうっすらと覚えている。

 

 

よく眠れると前日にもやもやとしていたことがどうでも良くなっている。毎朝(時々サボる)習慣というかルーチンワークとして書いているノート、ジャーナリングというらしい、にその時感じていることを綴ってそれを確かめる。入浴時に考えていたことなども思い出しながら一緒に書いた。

 

 

 

結局は「自他の境界線がどにあるか?」である。それがはっきりすれば、段々と気持ちが整理され、頭でわかっていても気持ちがついていかない状態・時間が減る。勝手な想像だが、相手はわたしという鏡に映る見たくない自分の姿を見ているだけのようだと思う。

 

 

 

わたしと他者は異なる生存戦略を展開している、それだけのこと。わたしの価値観に相手を照らし合せても仕方ないのだ。それぞれに理由があってそうする。その理由がわたしには(その通りかは別として)想像はできても理解はできない。そういうものなのだろうと思う。

 

 

 

どの相手にせよ答え合わせをしたいと思うほど深く関わりたいと思っていない。無関心なのか執着がないのか自分ではわからないが、昔それをなじられたこともあったなと思うくらいで。それがわたしの生存戦略なのだし、変えようと思っていない。

 

 

 

たまに「どうしてそうしたのか?」と尋ねると嬉々として答えてくれる相手はもちろんいるが、構えられたり怯えられたりすることもある。それが相手にとって核心を突くものだったらなおさら。無自覚にそれをするから余計に恐れられるのかも。

 

 

 

「それは突かれたくないことだった」とでも言ってくれればいいが、それが言えないから拗れるのだろう。あいにくとんでもなく鈍いので話してくれなければ相手の気持ちは想像はできても実際にどうかなんて1ミリもわからん。

 

 

 

嫌われるのが怖いから相手を嫌うということもあるかもしれない。何にせよ、わたしはどうしたいのかが重要だ。その人と仲良くしたいのか。一定の距離があればいいのか。最低限のコミュニケーションがあればいいのか。深く関わりたいのか。

 

 

 

そう考えると、わたしはやっぱり薄情なのかもしれない。それでいいよ、という相手と付き合っていけばいい。もうすぐ12月だ。わたしはわたしの進む方向を確かめて、次を準備しないと。