わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)137

 

 

もうすぐ2月だ。正月はついこの前だったのに。今年は長い正月休みを取ったので余計にそう思うのかもしれない。いつも仕事始めと称して宴会しかしないのだから、通常勤務はわたしの休み明けと同じタイミングであったと思う。それを見越して休みを取ったのだが。そんな始まりの1月だったが新しくシステムを導入する準備もあり、残業をする日が比較的多かった。

 

 

あれもこれも中途半端になって自分の中で絡まって流れを押し留めており、進められる仕事も一緒に滞ってしまいそうだった。だから一旦立ち止まってみよう。そこから離れてみようと思い不明点を拾い出す。色々やってみてわからないことを1人で悩んでいても解決にならないので、何をどうしたいのか、そのために何が必要なのかを書き出していくことにしたのだ。

 

 

自分ができることから対処していく。見直すことは沢山あるのだ。人の手を借りて見直す箇所を洗い出す。そんなこんなでいつの間にか定時を過ぎてしまうのである。家に帰ってもやり残した仕事のことを考えてしまう。とんだ仕事中毒である。なるべくエネルギーを温存しておきたいのだが、気になると色々忘れて集中してしまい、気づいたときにはだいぶ消耗している。

 

 

優先することは何か、その日その日、飛び込みやその場で対応が必要な仕事もあるのでその時々に考えながら取り組むしかない。

 

 

UVレジンの方は、先週幾つも試作したおかげでレジン液が残り少なくなり補充ができるまで一旦休み。どんな表現をしたいのかあらかじめイメージしておくこと、イメージどおりになるために何をするのかをある程度構成した上で取り掛かるのは、仕事と同じだ。イメージどおりにいかなくても、今の自分ならこんなものか、と思う。練習あるのみ。

 

 

わたしは変化の中に生きている。緩急あるがずっと変化の中にいる。同じ場所にとどまるより変化するところへと動いていく。安定した場所に居続けることを選ばないらしい。気づくと変化を選んでいるのだから。川の中の石が流れに押されて転がって角が取れて丸くなっていくようにいろんなものにぶつかって削られて磨かれていくのだろうと思う。

 

 

わたしは自分を磨くためにその選択をしているのだろう。どこかわからない見えない大きな意思がわたしをそうさせているようにも感じる。予定調和なのか。それでも自分で選んだと納得があれば、失敗したと思ってもその選択に不満はない。わたしは清廉ではないし、汚濁まみれでもない。清廉な部分もあれば汚濁なところもある。何が清廉とされ汚濁とされるのか。両方あってこそわたしなのだろう。