わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

自分をよりどころにする・自灯明・自由



自灯明も自由も仏教からのことばで、わたしのありたいところと同じだった。わたしは道を照らす灯火で、それ以上でもそれ以下でもない。ただ静かに道を照らす。煌々とではなく静かに。自分をよりどころにして進む。



宗教はどうでもいいけれど、その本質は結局の所「ゆるし」なんだよね。自分をゆるす。それができなくて苦しくて悩む。それだけのこと。そしてそれゆえに色んなことを難しく考えてしまう。



COVID-19の感染拡大と宴会を気の緩みと表現する人がいるけれど、そうじゃない。もう無理がきかないってことだ。緩みではなく、糸は限界まで引き伸ばされてぷつぷつと切れ始めているだけ。



でも、それを認めたくないんだね。ゆるせないんだね。いくら締め付けたところで、COVID-19はどうにもならないし、同じように自分以外の人をどうこうすることは難しい。だから一斉に同じ方向へ向かせようとかやめればいいのに。諦めたら?っていつも思う。



でも怖いんだね。それまでのことが否定されたようになるのが。そこまでして今の社会を生活を変えたくないんだね。変わっていくのにね。受け入れられないんだね。多くの人が気づいているのに、言い出せない。叩かれるのが怖いから。それはわたしも同じ。



出る杭は打たれてしまう。自分の主張をただ叫ぶより、今の状況で何ができるのかじっくり根をはって行動するだけだ。SNSで発信することはしない。それよりも目の前にあることに注力する。外側ではなく内側を整える。同調する人を集める必要はない。



わたしはわたしの道を進めばいいだけだし。誰かと一緒じゃなきゃ進めない道なんて望まない。進むための手助けはいつでも与えられているから。だから自分をよりどころにして進む。それを覚悟というのだろうか。



自灯明も自由も意味は同じ。自分をよりどころにする。それはわたしが願うこと、ありたい姿。道を照らす灯火そのもの。人に理解してもらうことなんてない。わたしがそれを理解していれば充分。だから話す必要もない。知ってもらうこともない。



ただあることに感謝して進むだけ。こうあること・すべてはわたしの学び・成長の機会であり、磨かれていくためのもの。テレビの音はうるさい。ラジオも要らない。心地よいと感じるものだけそばにあればいい。



うぐいすの声、そよぐ風。雨音。太陽の光。月と星。それはぜんぶわたしの一部であり、わたしはその一部。宇宙そのもので。だから何も必要としていない。容れ物を飾ることは無意味だと思う。けれど、それは今だからわかること。



容れ物を飾らなければならないと思っているのは仕方のないこと。そう環境があるから。だからとやかく言うこともないし。黙って見ているだけでよい。それぞれが良くなろうと一生懸命なだけだ。必死に溺れないように泳いで。



自分をよりどころにするためには、ぼーっとする時間やこうして静かに文字を書いたり、掃除をしたりアイロンをかけたりね。そんな時間が育てていく。キレイな都合のよいところだけ映す鏡じゃなくて、どんなことも映す鏡になること。それが一歩だね。



それは簡単にできることでもなくて。たくさん悩んだからこそわかったこと。最初から知っている人もいるかも知れないし、最後までわからない人もいるかも知れない。それはその人たちがどうありたいかだけだし。わたしはただ道を照らすだけ。見つけるのはその人でなければ。




だからね。その人たちが道を見つけられるようにわたしは幸せを願えばいいんだね。きっとね。それだけで充分。