わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)141

 

 

確定申告は今年も無事に終わった。よかった。記録を見るとかれこれ7年やってきた。続いたなぁ。ずっと赤字だったけど。と感慨深かった。これですっきり次へと行けると思えばなおさら。ありがたい。

 

 

 

先日身内と会った。話を聞いていると、経験を積めばさらに道が拓けるだろうと思った。同時に相手が得た人とのつながりを羨ましい、とも。その子だから得られたもので、わたしは得られない。ないものねだりだなぁ。わたしはわたしにあるものでやっていくしかない。相手とわたしは違う。羨むだけでは先へ進めないのだ。と認識した。

 

 

 

自分に見えるものだけがすべてではないとわかっていても、ころりと忘れてしまう。「話が通じない」のではなく、前提や定義が異なっているだけ。それだけなのに、その違いに気づかないがために互いの間に大きな隔たりができてしまう。わたしはそれに気づいても、相手に伝えないことが圧倒的に多い。関係性に執着していないからだろうか。去るものは追わず、なところがある。

 

 

 

自分にとってはそれが楽で都合が良い。そこにエネルギーを費やすより、他のことに集中したい。だから気を引こうとしてわたしを試すようなことをされても、その期待には応えられない。わたしはわたしを曲げてまで関係性に縋ることはできかねる。そうやって切り捨てることを躊躇わないから、希薄なのかも。自分の奥深くに関わらせることを望んでいないのもある。

 

 

 

そこはあまりにも柔らかくて繊細だから誰にも触れて欲しくないと知らずに防御するのだろう。誰に何をどこまで許すのか、とても厳しい審査がわたしの中にある。そこに触れられたらわたしを保てなくなりそうで怖い。たくさんの鎧をつけて厳重にガードしている。それを誰かに理解してほしいと望むのはつらい。誰かに望めなくてもわたしには望める。いつでもわたしはわたしに手を差し伸べているのだから。

 

 

 

互いの違いを相手に伝えるためには、わたしを開示する必要がある。それはわたしにとってとても恐ろしいことであり、大量のエネルギーを消費する。だから関係性の向上を求めないでいるのだ。無理して関係性を向上させようとしても、どこかしら綻びが出てくる。結局は、わたしは今のわたしのままでできることをしていくしかない。必要性がある相手であればちゃんと乗り越えてやれるから大丈夫。

 

 

 

今日は寒い。雲が多いから余計にそう感じるのかもしれない。このあと部屋の模様替えをやってみようか。少し前から考えていた。ベッドやPCの位置を変えたい。コード類が気になるけどそれはやってみないとわからない。まずは朝ご飯からだ。お腹が空いてきた。レジンは、何となく方向性が見えてきた。商品として模索しているから、きっと商品開発と言える。そう思うとワクワクした。

 

 

 

 

 

 

 

 

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)140

 

 

よもやま話にタイトルを統一してから今回で140になる。よく続いていると自分で思う。記事総数は200を超えて、中身はともかくだいぶ蓄積された。何度も書いているが、目的を自分のアウトプットに定めたから続いている。「書かなきゃ」と思うと義務感が生じて途端に書けなくなる。「書きたい」があって続く。気が乗らなければ書かない。

 

 

更新頻度は週1回。文字数は気にしない。だいたい1000文字程度で終わるが、短いときもあれば超えるときもある。アクセス数も見ていない。それは目的じゃないから。知人たちにブログの存在は知らせていない。まぁ見る人がみたらわかるだろうけど。書くにあたってこれらのわたしにとって”丁度良い”を見つけたことが続いた要素だと自分では分析している。

 

 

始めたばかりのレジンは、時々パーツを作っている程度。次はこうしてみようとアイデアは浮かぶが実際にやってみると何か違う。ということが度々ある。作ってみて、やはり基礎というのか、ガイドが少し必要かもしれないと思い始めた。通信講座を検討してみたが、資格は要らないし、講座に含まれる材料などが重複することや何より費用に折り合いがつかない。

 

 

本を見繕って購入すれば良かろうと結論付けた。動画も巷には溢れている。欲しい情報がすぐに手に入る便利な時代である。そのうち売ってみようと思う。商品としてクオリティがどうなのか、販売ルートをどうするかとかあれこれ考えている。ただ販売するだけじゃ競合に埋もれてしまう。商品クオリティについては、購入者が判断すること。じゃあどうするか。

 

 

商品をまず作ってみなければ。パーツだけにするのか、アクセサリーなどにするのか、作ってからだ。売るものがないのにあれこれ考えても仕方がない。作りつつ考えていこう。自分1人で難しいというなら、協力者を探してもいい。1つずつやっていこう。と、その前に。確定申告だ。毎回申告する時期になって、あれが足りないとか国税庁の申告サイトが変わってて慌てたりするが、今回はある程度用意してあるからきっと大丈夫!なはず。

 

 

わたしの大好きなバンドのアンケートがメールで届いた。普段アンケートの類はスルーするのだが、思わず回答してしまった。わたしはそのバンドに関することにはだいぶ盲目的であると自覚している。が。アルバムを何枚持っていますか?という問いに、数えてみたところ10枚を超えていた。10枚以上…。10枚以上…って相当ファンでは?

 

 

あれ?わたしそんなに?いや好きだけど、魂捧げてるけど、そんなに?え?え???どっぷり浸かっている?待って、ライブは3回。3回行った。ってことは、やっぱりディープな方?マニアックな情報は知らいないし、知りたくないからまだ大丈夫かな。う、うん。だ、大丈夫。と妙な動揺をして終わった。盲目的…。

 

 

 

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)139

 

 

しもやけができた。この時季恒例のイベントだ。複数の足指が赤く腫れてしまって時々痛痒い。靴下の中で汗と反応して悪化した経験から薬はあまり塗らない。冷やさないようにしたりマッサージしたりして自然治癒を待つ。歩いて足先の血行を良くしているつもりだけど、冷たいままだったり温まるのに時間がかかる。そしてすぐ冷たくなる。うまく付き合っていくしかないね。

 

 

仕事で何をどこから手を付けたらいいのかわからない状態になってしまった。分解しようにもどこからがいいのかわからず、あちこち手を付けては途中で止まってしまって、途方にくれている。1つずつ解決していくしかない。ってわかっているのだけど、周りの状況と比べてしまって焦っていることが余計にそうさせている。

 

 

そこに加えてとあるマニュアルが明文化されていないことが発覚し、そのまま放っておくことができず作りたいと申し出た。誰も作ろうとしない。言われれば取り組むだろうが、言われなければそのままだ。自分たちのことなのに困らないのかなぁ。誰かがやってくれるだろうとか、なければ無いで構わないとか、作ることに時間と労力を割きたくないとか、そんな意識なのかもしれない。

 

 

言い出した以上ササッとある程度作成してある。内容の加筆修正は周りに依頼して、レイアウトを整えればいいだけの状態にした。こういうものは早く整えるに限る。同じことが起きた時に右往左往することなく対応するためのものだ。また同じことを起こさないようにするためでもある。何かやらかしたとして、口だけの反省をして態度を改めないのはその人の自由だし、その結果はその人が引き受ける。

 

 

また、職場で起きたことを「個人の問題」としてしまうと、改善につながらない。職場で起きたことは職場の問題、組織の問題。なのに誰もがどこか他人事。自分に火の粉が降りかからなければいいのだろう。人はみな、自分のことを守るのに必死だ。わたし1人で一生懸命になったところで大した成果はないだろうが、それでもわたしは必要だと思うから取り組む。成果が重要なのではない。

 

 

件のマニュアルは安全管理上必要不可欠で、ないとなれば労基署を始めとするお役所から職場の体制を糾弾され強い指導が入るであろう代物。なのに。事故が起きてなお、「マニュアルがない」と言って必要な手順を蔑ろにして表面上の対応だけで済ませてしまおうとしているのは、看過できない。

 

 

そこまで首を突っ込むこともなかろうと自分でも思う。その行為の結果を引き受けるのは当人とそれを良しとした組織である。そこはどうでもいい。が、この先同じようなことが起きたときに困る人がいないようにしたいっていう強い想いがわたしを動かしている。そこは信念と呼んでいいのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)138

 

 

今日は立春。今季は春のような暖かい日が多く、梅があちこちで開花しているのを見る。風は冷たいが陽射しの暖かさにほっとする。

 

 

服を新しく購入し、古いものを処分した。すり切れた服はインナーといえどもいつまでも着たいものではない。とはいえ数年大事に着たので充分役割は果たしてくれた。ヨレヨレだったり摩擦で穴が空いてしまったカーディガンも買い替えた。リサイクルに出せるものは洗濯しておく。コートも今季が終わったら買い替えないと。リュックとの摩擦がある箇所は随分とヘタっている。軽くてふわもこなアウターはそこが難点だと思う。

 

 

替えようと思って数ヶ月経ってしまったが靴もようやく1足買い替えた。中のソールがヘタっているので残りの靴も来月あたりには新調したい。少しずつ整えていこう。

 

 

美容院にも行ってきた。ちらほらと見える白髪をカモフラージュするため明るく髪色を染めてもらった。髪色はグレーにしたいと伝えてあり、最終的にグレーに近づけてくれうよう担当美容師さんは段階を踏んで対応してくれている。いきなり明るくすると髪の毛の負担も大きいらしい。回数を重ねることでリピートにつながるという理由もあるだろうと勝手に思っている。大まかな要望を伝えればあとは似合うように良くしてくれるので、大変ありがたい。

 

 

 

そろそろ本格的に契約更新について考えてほしいと言われ、どれだけ通るのかわからないが、先日希望を伝えた。いくら待遇を良くされても譲れないものがある。わたしの根幹に関わることだ。仕事は人生の通過点であり、目的地ではない、と思っている。周りがどう思おうと、わたしは充分に尽くした。

 

 

人として替えが利かないのは当然として、仕事は替えが利くようにしたいとポロリと言ったら、理想はそうだと上司から返ってきた。仕事の仕組みをシステマティックにすることで誰が携わっても同じようにできることは会社としてメリットが大きいが、現状は属人的になっている。この会社は遅れてるんだよ、と。小規模だからそれでも保っていられるのだろう。

 

 

働く人たちが経営者、現場、事務方などそれぞれの立場の目線を持てたらいいのだが、現実はそうじゃない。だいたいの人は自分の立場、目線で物ごとを考え、行動する。仕事をシステマティックにしても、「この人にお願いしたい」「この人だから安心できる」という感情はあるだろう。個人的な感情はどうしても色々なできごとに結びつきがちだ。

 

 

感情を切り離して物ごとを見れる人は少ないのかもしれない。時にはそれが「冷たい」「配慮が足りない」と他者に映ることもある。見ているもの、目線が違うだけなのに。けど目線の違いが距離を作り、人を隔てる。隔たりは互いが望めが崩すこともできよう。多くの人はよほどの信頼がなければ、それを自分を脅かすものと恐れ拒否する。だから信頼って貴重で大切だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)137

 

 

もうすぐ2月だ。正月はついこの前だったのに。今年は長い正月休みを取ったので余計にそう思うのかもしれない。いつも仕事始めと称して宴会しかしないのだから、通常勤務はわたしの休み明けと同じタイミングであったと思う。それを見越して休みを取ったのだが。そんな始まりの1月だったが新しくシステムを導入する準備もあり、残業をする日が比較的多かった。

 

 

あれもこれも中途半端になって自分の中で絡まって流れを押し留めており、進められる仕事も一緒に滞ってしまいそうだった。だから一旦立ち止まってみよう。そこから離れてみようと思い不明点を拾い出す。色々やってみてわからないことを1人で悩んでいても解決にならないので、何をどうしたいのか、そのために何が必要なのかを書き出していくことにしたのだ。

 

 

自分ができることから対処していく。見直すことは沢山あるのだ。人の手を借りて見直す箇所を洗い出す。そんなこんなでいつの間にか定時を過ぎてしまうのである。家に帰ってもやり残した仕事のことを考えてしまう。とんだ仕事中毒である。なるべくエネルギーを温存しておきたいのだが、気になると色々忘れて集中してしまい、気づいたときにはだいぶ消耗している。

 

 

優先することは何か、その日その日、飛び込みやその場で対応が必要な仕事もあるのでその時々に考えながら取り組むしかない。

 

 

UVレジンの方は、先週幾つも試作したおかげでレジン液が残り少なくなり補充ができるまで一旦休み。どんな表現をしたいのかあらかじめイメージしておくこと、イメージどおりになるために何をするのかをある程度構成した上で取り掛かるのは、仕事と同じだ。イメージどおりにいかなくても、今の自分ならこんなものか、と思う。練習あるのみ。

 

 

わたしは変化の中に生きている。緩急あるがずっと変化の中にいる。同じ場所にとどまるより変化するところへと動いていく。安定した場所に居続けることを選ばないらしい。気づくと変化を選んでいるのだから。川の中の石が流れに押されて転がって角が取れて丸くなっていくようにいろんなものにぶつかって削られて磨かれていくのだろうと思う。

 

 

わたしは自分を磨くためにその選択をしているのだろう。どこかわからない見えない大きな意思がわたしをそうさせているようにも感じる。予定調和なのか。それでも自分で選んだと納得があれば、失敗したと思ってもその選択に不満はない。わたしは清廉ではないし、汚濁まみれでもない。清廉な部分もあれば汚濁なところもある。何が清廉とされ汚濁とされるのか。両方あってこそわたしなのだろう。

 

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)136

 

 

ヘッドホンを新調した。3年位使っただろうか。時々Bluetoothの接続が飛んだり、接続すると音量が勝手に大きくなったりするが通勤で使うだけなので、充分ではあった。ふと見たら、イヤーパッドがボロボロで中のスポンジがところどころ見えたのが新しいものを購入をする気にさせた。今回は、ノイキャン機能が搭載されているものを選んだ。

 

 

ノイキャン良い。周りの音が聞こえにくい。音楽に集中できる。素晴らしい。歩いている時に後ろから車がきても気づかないから注意は必要。ハイブリッド車のようにエンジン音が静かなものはまったくわからない。すごい技術だ。またアプリを使えば好みのサウンドにある程度調整できる。聴き心地が向上するのはありがたい。

 

 

そして、毎回だがおそろしくヘッドホンと頭の形状が合っておらず、装着すると非常に似合わない。鏡を見てびっくりする。似合わなすぎる。。。頭の形状に合うヘッドホンは探せばあるのかもしれないが、予算やデザインなどの好みを考えると見つけるのも大変だし、それよりは自分の気に入ったものが良いと思っている。わたしの見た目を良くする目的でヘッドホンを使うわけじゃない。

 

 

最近小物を作ろうとUVレジンを始めた。続くかわからないので道具や材料は少しずつ揃えている。まずは思うようにやってみようと型にレジン液を流してみる。型からはみ出したり、気泡が沢山できたり。ネットで見る素敵なものには程遠い。作り方動画を幾つか見て、なるほどクオリティの高いものを作るには幾つもの工程があって時間と労力が必要なのだなと知った。

 

 

今日はそれを踏まえて少し時間をかけて作ってみようと思う。こうやって試行錯誤しているのが楽しい。UVレジンは1つずつの手作業なので同じものは作れない。同じ型を使っても作り手によって違う表情を見せる。個性やセンスの違いが面白いし、楽しい。それぞれが唯一無二だと実感できる。まずはたくさん練習するところから。

 

 

仕事も同じだな。幾つもの工程を経て1つの成果物を完成させる。複数人で取り組むか1人で取り組むかの違いはあるだろう。どの人がどの工程に関わるか。その人がどういう心構えでその工程に取り組むのか。自分の工程が終われば良いのか、次の工程、その先々に関わる人の立場、目線に立てるか。それが仕事の質や人間関係を左右するのだと思う。

 

 

わたしはおそらく、周りへの興味関心が薄い。仕事をする上で必要だからそうするだけであって、それ以上は関わらない。親愛の気持ちがある上司にですら仕事以外のことには関わらない。その親愛も仮初めなのかもしれない。彩り豊かなこの世界でわたしだけが灰色のような気持ちになる。それでも。そのままのわたしで生きていく。

 

 

 

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)135

 

 

今朝は寒い。窓際にいると冷気が伝ってくる。上着を羽織ってひざ掛けを用意して過ごす。ヒートテックは必須。最近足指が冷たく、就寝時に布団の中でその冷たさにびっくりするので寝る前に足裏をマッサージすることにした。左右で痛いと感じる場所が違う。オイルをつけてゆっくりじっくりマッサージ。レッグウォーマーも着ける。そうすると比較的早く足先が暖かくなって寝付きやすい。

 

 

同僚は布団乾燥機の温めモードを布団に15分くらいかけてから寝ると話していた。それもアリだ。わたしの場合は、足先そのものを温かくしたい。カラダの内側から、といえばいいのか。布団が温かいと却って足先の冷たさが気になる。子どもの頃は湯たんぽを使用していたが、寝ている間に蹴飛ばしてしまう。布団が温かくなりすぎて寝苦しくなるらしい。

 

 

足裏マッサージは、かかとの乾燥対策で保湿オイルをぬるついでに始めたのだがわたしに合ったらしい。マッサージ器具の購入も検討したが例によってすぐに飽きてしまいそうなので見送る。

 

 

「わたしはあの人がキライ」と認めたら、それまで相手に対し湧き上がっていた不快な感じが和らいだ。昨日までその人の名前が聴こえてくるだけで自分の中がざわついてイヤな感じになっていたのに、それが小さくなった。相手を嫌うのはわたしの都合。それを認めたくなかっただけなのだと理解する。それは相手のせいではない。

 

 

相手がわたしをどう思って、どう態度に現すのかは相手の問題である。相手の行いが今でも面白くないし、不愉快だ。でもそれはわたしが相手を嫌っているからであって相手のせいではない。そう思うとわたしは自分が思っている以上に人の好き嫌いがあるようだと気づく。分け隔てなく、とかまったくない。好きなものは好きだし、キライなものはキライだ。

 

 

食べ物もそう。キライなものはいっさい手を付けない。堪えて食べようなどと微塵も思っていない。受け付けられない。加工されていたり、匂いや味がわかならければ食べられるものもあるが限られている。キライなものを嫌だと思いながら食べるより、美味しいものを美味しいと思って食べるほうが精神衛生上もよろしい。どうやら人に対しても同じらしい。

 

 

キライなものを無理して好きになるなんて、わたしにはできないしその気持ちを抑え込むとどこかにひずみができる。だったらいいじゃないか。キライならキライで。相手がそれをどう思うかなんてわたしにはどうにもならない、コントロールできることではないのだ。わたしのできることをしよう。

 

 

今日は掃除のついでに冷蔵庫の位置を変えようと思っている。年末年始の間、引きこもっていた時間が多かったせいか、少しお腹やお尻が大きくなったらしい。甘味もそれなりに食べているし。。。冷蔵庫の位置を変えることでお腹やお尻が狭いところでつっかからないようにしたい。適正な体型維持も大事だが、ひとまず。