わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)84

 

 

状況は日々変わる。それに追いつけなくて離れる人もいるが、何でもないように合わせられる人もいる。体制がコロコロと変わっても感情が動くことがなくなった気がする。自分と他者との境界線があるのか。とはいえ、色々気にしていることもある。

 

 

 

自分のコントロールが及ばないことなのだと腑に落ちるまで、あれこれ考えを巡らすが、ふとした瞬間に「ああ。そうだった」と気づく。ノートに自分の気持ちを書き出しているときや、こうして記事を書いているとき。気持ちや考えを視覚化するとそういうことか、と妙に納得する。

 

 

 

そこで知らずのうちに他人の領域に入り込んでいたとわかる。冷たいのかもしれないと自分では感じていても、他人は違うことに目が向いていることだってある。わたしのベクトルは他者から映る自分に向いていたと気づいた。

 

 

 

今朝見た夢はそんなことを反映していたのかもしれない。知らない人が職務上の立場を利用し、わたしの個人情報を得て接触してくる夢だった。目が覚めてあれこれしているうちに、気にしなくていいところを気にしていたとわかったので、スッとカラダが軽くなったように感じる。

 

 

 

今日はまた一つ手放すものがある。手放せるのがありがたい。あれもこれもと欲しがっていたが、求めなくてもいいのだと思う。手の届かないものをずっと求めるより、目の前にあることを大切にしたい。とはいえ、すぐに忘れてまた手を伸ばすのかもしれないが、それもまたわたしの人生なのだろう。

 

 

 

一度決めたことを手放すのかと周りが言ったとしても、わたしの人生はわたしが歩むから、わたしのことはわたしが決める。周りがどう思うかはどうでもいい。わたしの大切なものはわたしにしかわからないし、誰かに理解してもらう必要もない。

 

 

 

わたしが解っていればいいのだ。わたしの人生を最後まで共に歩むのは、わたし自身だから。そんなふうにしていると、時に怖がられたり、緊張されたりする。失敗はゆるされないとでも思うのかな。そんな雰囲気をまとっているのかもしれない。

 

 

 

実際鷹揚ではないと思う。笑うこともなく淡々と受け入れてしまうので、共感を求める人には近寄りがたいのだろうと思う。寄り添えなくてごめんと思うが、それもまたわたし。思い返せば、子供の頃から思いやりを持てと散々言われた気がする。

 

 

 

冷たいだの、勝手だの言われた。なんで全部合わせる必要があるのだろうとココロの中では反発していた。合わせられないのだから、求めないでくれ。強要しないでほしい。って何度思ったことか。今だからそんな自分にゆるせるようになったのだと今日は思う。