わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)35

 

 

ふすまに反りができてしまい、開け閉めしずらい状況だった。反りを直すのにダンボールを挟むといいとのことなので、試してみた。挟んでしばらくそのままにしておくらしい。スムーズに開閉できるようになるといいな。

 

 

 

最近根菜ばかり食べているせいか、お腹がはる。食べすぎか?緊張が強いので、空気を飲み込むことも多いからそれもあるのだろう。あとホルモンバランスの乱れとか、自律神経の乱れとかいろんなことが重なっているようにも感じる。

 

 

 

いつも緊張が強いから、力を抜くことを忘れがち。気づくと肩に力が入っている。湯船に浸かることは、力を抜く貴重なタイミング。だからゆっくり浸かっていたいのかもしれない。お風呂上がりの爽快感は心地よい。

 

 

 

部屋の片付けも順調に進んで、すっきりさが増してきた。あとは押入れの中にしまったものを少しづつ処分していくだけ。一度にすべては片付かないから、少しづつ時間をかけて取り組む。必要なものだけになったら、押入れの中の余白も増える。

 

 

 

視覚的に余計な情報がないと落ち着く。テレビも然り。テレビは音もあるから余計に煩わしく感じる。ニュースはネットの記事で充分。ネットだと自分の知りたい情報だけを選ぶことができるので重宝している。

 

 

 

だいたい見出しだけ確認して、中身は見ないことが多い。あえて情報に疎くなることで、わたしは穏やかに過ごせる。必要な情報は追うけれど、それ以外は疎くなるようにしている。周りは無関心だと言ってくるけれど、それを知ってどうなる?ということがわたしには多いだけ。

 

 

 

わたしが物ごとに無関心だとしても、それで周りはどう困るのか?自分の兄弟姉妹がどこでどんな仕事をしているのかわたしが知らなくても、職場の人は困らないでしょ?知る必要があれば、訊けばいいだけで。今のところ、必要性を感じていない。

 

 

 

職場の人も然り。住まいとか家族構成とか、個人の背景は業務上必要なこと以外は詮索しない。そういう興味関心は薄いのだね。それよりも、何をどう考えるか、物ごとをどう捉えるのか知りたい。それでよく感じるのは「ミスはゆるされない」「はじめから完璧であること」という意識。

 

 

 

その裏には、欠乏感があるのかな?と感じる。それはそれぞれの課題なのだろうからわたしが立ち入ることではない。それを忘れてしまうことも多々あるが、気づけば線を引く。んで、その線がドライだとか無関心さを相手に感じさせるのだろうとも思う。

 

 

 

わたしが人や物ごとに無関心かどうかは他人の評価でしかない。それをわたしが気にしても仕方がない。だからわたしはわたしの目の前にあることにベストを尽くして進むだけ。