「一隅を照らす」という言葉がある。人にせよ何にせよ、その存在そのものが一隅を照らすもので、敢えてなろうとすることもない。華やかさも必要ないし。あってもなくてもいい。人は一生懸命ナニモノかになろうとするけれど、それもいらない。
ナニモノであろうとその存在は変わらないから。スピリチュアル系のネット記事を見ると、自分は世界の創造主だという主旨の文章を目にする。なんじゃそりゃ?ってまったく理解できなかった。最近その意味がわかったように感じる。
それはデカルトの言う「我思う故に我あり」に通じる。わたしという窓を通して世界を見れば、それは世界の創造主だと言えるのだろう。わたしがキンモクセイが咲いていると認識するからキンモクセイは咲いているのである。
だからわたしが目を閉じる時、それはその世界が終わることを意味する。ただ世界が終わるだけで、そのあとに何があるのかなんて知る由もない。
デカルトが物質二元論を提唱したことで、ルネサンス時代は花開き医学は進歩した。(とわたしは思っている)その一方で二元論はどこかで本質を取り違えられてしまったようにも感じる。なんて、ちゃんとそのあたりの本を読んでいないので偉そうなことは何ひとつ書けない。
だから、これは何の根拠もないただのひとり言。二元論はマズローやアドラーの「共同体意識」と近いのだと思う。肉体とは別に精神があり、その深いところですべてはつながっているという感覚。感覚でしかないので、目に見えて証明することは難しい。
むしろ証明する必要なんてないのかもね。見えないからこそ感じるのだから。目に見えるものだけにとらわれると、感じられないのかもしれない。昨日の記事で書いた経営者のこと。専門用語を使わないことが問題なのではなく、もっと別のことを言っているのだと感じている。
満たされなさや劣等感が根底にあるのはわかるけれど、具体的なところまでは知りようがない。そして知りたいと思っていないわたしがいる。冷たいのかもしれないが。入り込みたいと感じないのだからしょうがない。
その時間を相手に割きたいと思わないし、相手も望んでいないように感じる。相手は恐れるだろう。わたしもまた同じように恐れているのかもしれない。互いを深く理解するというのは、相手を信頼することから始まる。信頼したい相手だろうか。
わたしが相手を信頼できなければ、相手もまたわたしを信頼しないだろう。そして信頼してほしいという望みも持てない。その望みはいらないから。信頼するかどうかは相手が決めることだからね。そしてその姿はいつでも一隅を照らしている。