わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)82

 

 

今朝は秋らし爽やかな陽気だ。行楽日和。窓を開けていると心地よい空気が入ってくる。

 

 

 

先日腰を痛めてしまった。探しものをしていて、収納用のワゴンを動かす時に妙な負荷がかかったようだ。塗り薬を塗ってもあまり良くならず、ストレッチをしたりして少しずつ痛みは改善してきた。起き上がったり、腰を落としてしゃがむなどの動作時に痛むので、筋肉が痛むのかな。起きてしまったことはしょうがない。

 

 

 

問題は「問題」と捉えるから問題になる。状況に流されすぎているのかなと感じるが、敢えて流れに任せている自分がいる。それを選択しているのは、着地点が見えないからだ。見えない以上、どこで抗うのか、流れを変えるのかが読めない。

 

 

 

そして、腹を探り合うような交渉の仕方はわたしの性に合わないし、する気もない。ましてや相手の取り分をむしるだけむしろうなどもっての外で。ただ、流れの中にいてもココロの境界線はわりとはっきりしているので、ダメージ感は少ない。

 

 

 

わたしはこの状況下で何を選択しないか自覚している。同調してないし、受け流している感覚がある。受け取る必要のないものは容赦なくぽいっとする。ナチュラルに。きっとこれはクリフトンストレングスでいえば、戦略性と適応性が働いているのだろう。

 

 

 

こうしてあれこれ考えを巡らせているのは、内省だし、選択を手助けしているのは慎重さや収集心だ。共感性は、おそらく相手はこう感じているだろうなどを読むだけで、それ以上はあまり揺れなくなった気がする。信念や責任感、運命思考もわたしの行動をフォローしている。

 

 

 

わたしの資質がわたしを助けているとわかると、なんだか嬉しい。それぞれの統制が取れている感覚って大切かもしれない。それは時に周りをビビらせることもある。わたしはわたし、あなたはあなたがはっきりしていて怖いらしい。

 

 

 

とはいえ、イラッとすることもある。なぜこれをしてあれをしないのかと。そんな時は内省タイムに入ってじっくり考える。…あ。そういえば、この人は点と点がつながりにくいんだった。物事のつながりが見えてないのかなと思い直せば、イライラも消える。

 

 

 

しかしながら、わたしが見えているものを説明するのは面倒だと感じる。見えない人には見えないのだ。この点とあの点はつながるんだよと説明してもその場限りで、次に活かされることが少ない。まったく同じケースなら対応できるが、少し違うと途端にわからなくなってしまうからだ。

 

 

 

見えるようになったのではなく、条件反射のように反応しているだけで、見える本質を理解していない。その度にこれはこうと説明する労力を注ぎたいと思えず、相手にそれを求めるくらいなら、別のことを頼んだほうがいいなと切り替えてしまう。

 

 

 

フォローできるものはするが、目の届かないところまではどうしようもない。さらりと伝えるだけにとどめておこう。本人の行いは本人が決めてその責を負えばいいのだ。わたしも然り。その結果はわたしが引き受ければいい。