わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)87

 

 

今朝はゆっくりと起きた。布団の中でスマホを眺めていたらあっという間に時間が過ぎていた。ストールを買おうかどうしようか迷って、あれこれ見ていたが、結局、今あるものでいいという結論になった。

 

 

選ぶうちにいつもの服にコーディネートしやすいかなど考えるのが面倒になった。今あるもので十分事足りる。布団からぱっと起き出して、掃除機かければもうすっかりストールのことなど忘れているのだ。先日出先でどうしてもと連れて帰ってきてしまったものもある。

 

 

モノを増やすのは控えたい。最近はそんなことがなかったので、どうしたのだろう?と自分に問いかける。無性に甘いものが食べたくなったりするので、何かを欲しているのかもしれない。

 

 

「損な役回りのように見える」「(当事者とは違う立ち位置にも関わらず)矢面に立たされてしまっているよう」とこの前言われた。わたし自身は「そういうお役目なんだな」と思うだけで何の感慨もない。相手は心配してくれているのだろう。誰かが陰でいろいろ言っているのかもしれない。

 

 

その人はわたしの陰になって難を逃れようとする人がいることが許せないのだろうか。だとしてもそれは、その人のあり方の問題であって、それでわたしの何が損なわれるのだろう?と考える。難を逃れようとするのは、その人が自分を守るのに必死だからだ。

 

 

わたしから何かを吸い取って、それで益を得ているように見えるのだろうが、実際は何も起こっていない。その人が本当に欲しいものをわたしは持っていないし、いくら求められても与えることはできないから。得られたものは、仮初のものにすぎない。

 

 

…ってわたしは捉えているので、そこに心が動かない。でも、それはわたしの捉え方であって、他の人は違うのだ。とはいえ、とても心配して伝えてきたのだろうから、その気持ちはとてもありがたい。

 

 

理解され難い人となりだと自分でも思っているので、気にかけてくれる人は貴重だ。自分を開示する相手を選ぶので、それ故に近寄りがたいと思われている。それがわたしの気質だ。周りに合わせるために自分をねじ曲げることはどうしてもできない。それもわたしの気質。

 

 

それを理解する人は少ないし、周りに求めようという気もない。ブッダの言葉を借りれば、犀の角のように唯独り歩め、だ。扱いづらいから不用意に近づく人はいないし、適度に距離を保たれる。自分のタイミングでいろいろできる。

 

 

さて。お腹がすいてきた。ブランチにちょうどいい時間かもしれない。