わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)39

 

 

1月ももう終わりにさしかかった。あっという間という感覚はない。何もしていない感覚もない。ただ、あぁ過ぎたのだなと思うだけ。引っ越していつも思う。この選択をしてよかった。こうしていられることのありがたさ。

 

 

ヴィクトール・フランクル著「夜と霧」を読んだ。この本をわたしは今まで読んだことがなかった。だが、これまで読んできた本の中に本書は度々登場するので、どのようなことが書いてあるのか気になって手に取ることにした。

 

 

店員に訊けば早いのだが、わたしは自分で本書を見つけたいと思い、本屋の中をぐるぐると探し回った。30分ほどしてようやく見つけた本書は、歴史と書かれた本棚にあった。確かに歴史だ。同じ棚には、同時代のことを書いた書籍が並んでいた。

 

 

でも、会計を済ませて渡されたレシートを見れば、「ビジネス」と印字されている。わたしの中で本書は思想のカテゴリに入っていたので、カテゴリとは一体なんだろう?と疑問がわいた。それはともかく、想像していたより薄い本だ。

 

 

落ち着いてゆっくり読もう。読み始めてから、ヒトラーはなぜ強制収容所を作ったのだろうか?ユダヤの人々はなぜ迫害の対象になったのか?そんな疑問が生まれ、そこを少し掘り下げることにした。そうするときっと本書も深く読み込めるかもしれないと思ったからだ。

 

 

さらりと調べたところ、ドイツは第一次世界大戦の敗戦国で、多額の賠償金と大恐慌とで混乱のさなかにいた。ナチ党が支持されたのは、その時の混乱から抜け出したいがための時代の流れだったのだろうと感じた。

 

 

強制収容所にはユダヤの人々だけでなく、ジプシーたちも収容された。文化・価値観の違う人々を排除するために。人としての尊厳をすべて奪われ、ただの道具のように扱われた過酷な収容所のことはあちらこちらで語られているし、わたしは体験者ではないからそこには触れない。

 

 

生き延びるために行われた様々なことは、決して収容所内だけのものではないと思う。収容所の外も生き延びるために必死だったのだと。生き延びたいがために、収容所を作り排除したい人々を閉じ込めた。

 

 

 

ユダヤ教選民思想があり、それが批判の的となった。でもその批判は裏を返せば、自分たちが選ばれたいからに他ならないからだろうとわたしは思う。わたしはユダヤの人でもなければヨーロッパの人でもない。その時の歴史にほんの少し触れただけの、ものを知らない者だ。

 

 

 

だから的はずれなことを書いているかもしれない。歪んでいるのかもしれない。そんなことはどうでもいい。今は書きたいから書いている。その時代の人々すべてがそうだったとは思っていない。多くの人は大きな流れにわけも分からず翻弄されただけだろう。

 

 

 

現に今でも同じことは起こっている。そこかしこで。装飾や手段が違うだけでその本質・構図は同じだ。そして人が求める普遍的なものも同じ。ただ渇きを癒やしたくて、脅威を取り除きたくて仕方がないだけ。

 

 

渇きや脅威から逃れようとするのは生き物のサガだ。けれど、それは本当に渇きや脅威なのだろうか?

 

 

少し前にちらりと見たニュースで、ある国ではコロナワクチンを接種しない人に税を課すという案があるとのこと。税金は懲罰ではない。税金本来の目的とかけ離れた案が出され、それらがまかり通るのは、それだけCOVID-19に脅威を抱くと同時に、過去の状況を取り戻したいがための行為だ。

 

 

つまり、生き延びたいのだ。だから意に沿わないものを力で従わせようとしている。それはぎゅうぎゅうに詰め込まれ、座ることも許されない列車で強制収容所へ人々を連れて行くのと一体何が違うというのだろう。。。(だがどうしてそれを責められようか?)