わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

相手の都合もわたしの都合もどうでもいい


前回の記事では、わたしのまわりで起きたこと、わたしが感じたことをつらつらと書きました。「それは誰の問題か立ち止まって考えてみる」と書きながら、立ち止まっていなかったように今は思います。相手の見え透いた都合も、わたしの都合もどうでもいいことなのに、反応しているわたしがいました。



自分の行動や言動を振り返り、「イライラの元って自分の都合を押し通そうとするからなんだな」と反省しました。今日は、その反省を元にどうでもいいと思えるようになることについて書いていきます。では、本文へどうぞ。





なぜ反応してしまったのか振り返ってみると、ココロの余白が少なかったからじゃないかと考えます。仕事での作業がどうにもならない理由で遅れていて、できるだけ早くその遅れを取り戻したく余計なことに時間を割きたくない状態でした。集中して作業を進めたいのに、思うようにならないことにどこかしらイライラしていたのです。




だから「わからない」と丸投げしてくる相手がゆるせなかったのですね。ただでさえ思うようにならない状態にイライラしているのに、これ以上煩わせないでほしいというわたしの都合がありました。相手の学ぶ・成長の機会なんて書いていましたけれど、それもどうでもいいことで、自分の都合をただ押し通そうとしているだけだったのです。




相手がそれを学び・成長の機会ととらえるかは相手次第で、相手がそう思わなかったらそれは機会ではないのです。学び・成長の機会だとわたしがとらえているのだから、わたしの都合です。相手が機会だと思っていないのであれば、それは一方的なわたしの都合の押し付けでしかありません。




とはいえ、丸投げしてくる相手に自分の時間を割きたくないので、相手に対してどこまで応じるのか、線を引くことにしました。わたしが提供するのはここまでですよ、その先を求めるのなら相応の対価をいただきますよ、と。それで相手がどうするかは相手が決めることです。わたしが相手に合わせることも相手がわたしに合わせることもない。




でもね。それもどうでもいいことだと思ってしまいました。おそらく相手はそれでも丸投げしてきます。何も感じていないから。それもどうでもいい瑣末なこと。




わたしがいつもお参りに行く神社の境内には、瓶がおいてあります。水が張ってあり、中には魚や水草があります。お参りの順番を待っているときにぼーっとその瓶を眺めていたら、ふいに瓶の中はひとつの世界だな、と思いました。




瓶や祠、植物、それぞれの小さな世界が集まって神社の境内という世界がある。わたしのカラダも小さな世界が集まってわたしという世界を成している。爪という世界、腕という世界、心臓という世界、脳という世界…。世界はわたしそのものだと感じたのです。




次の日は、雨で瓶の中の様子が昨日と違って見えました。世界は変わりゆくものだな、と感じたら、イライラとか自分の都合とか、誰がどうだとか瑣末でどうでもいいことに思えたのです。世界の集まり方が違うだけで、変わりゆくものひとつひとつにこだわること自体がしょうもないことだな、と。




瓶の中の世界が発端となり、視点の位置を変えてものごとを見た結果なのでしょう。俯瞰というものかも。面白いことに、なぜそんなにこだわっていたのかしら?と不思議だったりします。(仕事の遅れが徐々に取り戻せつつあり、ココロの余白が戻ったことでそう感じられるのかもしれません。)




世の中に嫌気がさしたとか、投げやりな「どうでもいい」ではなく、ネガティブでもポジティブでもない「どうでもいい」です。そんなのあるの?と思われるかもしれませんが、わたしの中ではそうなっています。