わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

花は雨風で散るのではない、時がきたから散るのだ




今日は昨日と一転、肌寒い日です。こうして段々と春本番になっていくのですね。ソメイヨシノの開花もそう遠くない時季なのでしょう。家のスイセンの蕾もだいぶ大きくなり、もうすぐ咲きそうです。わたしが手入れしているわけじゃないけど。。。




クリスマスローズも咲いていて、種がこぼれたのか別の場所にも咲いています。クリスマスの時季じゃないのになんでクリスマスローズという名前なのか不思議です。そのうちドクダミすずらんも咲いて、つつじやサツキが咲いたら菖蒲が咲いて。。。




でね。雨風の強かった日の翌日、梅の花がしっかりと咲いているのを見て花は時が来たら咲いて時が来たら散るんだな、とふと思いました。雨風が強いから散ったのではないんだな。と。人は何か現象が起きた時にその原因を見つけようとするけれど、必要ない時もあるんじゃないかなって感じます。




物ごとに意味を持たせたがるのは、自分を肯定/否定したいからなのかな。。。何でもかんでも意味づけしてたら疲れそう。意味づけってジャッジメントの要素もあるから。それよりも、そうあることにありがとうを感じていたいとわたしは思うし、そうしたいです。




腹が立つことはもちろんあるし、イライラすることもある。でも、掘り下げていくと自分を押し通そうとしていただけで、さほど重要なことじゃないとわかれば気持ちのざわつきは収まります。





そんなことを繰り返していると、時には他人のココロの動きがわかったりしてきます。この人には背負う勇気がないんだな、とか。身近な人ならなおさら。感情のままに言いたいことだけ言って、そのことばに責任を感じていないとかね。





鏡に映る自分にそのことば言えるのかな?って。それはわたし自身にも当てはまるので、時々反省しています。。。んで、持ち歩いています。携帯用の小さな鏡を。自分を律するためと、余計なものを受け取らないように。おまじないみたいなものですが。






わたしはこれまで自分に起きたできごとを全部まわりのせいにしてきました。〇〇さんがしてくれなかったからこうなった、って。まわりのせいにすることで、自分を守っていたんだなとも思います。そのほうが都合がよかった。





わたしが守っていたものは、わたし自身ではなくまわりの自分への評価でした。いい人と思われたいっていう。そうしないと排除されてしまうかもしれないって不安だったから。まわりの評価=自分の価値だと思っていたからです。でも違ってた。





まわりの評価があろうとなかろうとわたしの価値には関係ないことだって気づいたので、まわりに左右されることが減りました。そうしたらわたしを評価しない人は離れていくし、評価する人が寄ってくるようになったように感じます。





だからね。冒頭の話へ戻りますが、花は時季がきたら咲いて時季がきたら散るんです。まわりの評価=自分の価値という花は散って、種ができて今度は別の花が咲くようになったのです。





花は華やかでひと目を惹きますが、その花を咲かすためには根を地中深くはり、陽の光を浴びて成長していくことが必要です。つまり、日々のつみかさね、です。