わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)14

 

 

「マニュアルを見直してほしい」と先日経営者に頼まれた。経営者曰く、有資格者が所定の記入欄に専門用語で記載しないのは恥ずかしいとのこと。マニュアルに従って有資格者に専門用語で記載してもらいたいのだそう。

 

 

 

件の専門用語を日本語で表すことは、経営者の価値観とそぐわないらしい。それとなく普段から日本語で記載される方もいらっしゃる旨を伝えたものの、納得しない。金を払っているのだから、自分の価値観に合わせろとのこと。←わたしの捉え方、意訳。

 

 

 

 

おそらく、自分と同等またはそれ以上(と経営者が認識している)の有資格者から話をすれば納得するのだろう。今日はそこから感じたことについて書いていく。

 

 

 

 

経営者の根底にあるのは、満たされなさと劣等感。それを刺激されるのをとても嫌がる。だって認めたくないことだから。自覚はないけれど、どこかでそれを知っている。それが現れているのだろうな。認めなくていいように、必死に周りに求める。

 

 

 

あるいは、自分が認められないから周りに認めてもらおうと必死になる。それが働く人を離れさせているのにね。でも、溺れないように必死にもがいているから気づかない。

 

 

 

経営者とわたしのやり取りを少し離れたところで聞いていた上司は後から笑いを含めて「ウチの社長がすいません」と言ってきたけれど、わたしは同意できなかった。そうして蔑むこともまた違うと感じるから。

 

 

 

経営者には見えないものが上司やわたしには見える。だけど、上司とわたしの見えるものもまた違う。上司はわたし以上に経営者とやり取りしてそれを知っているのにね。きっと忘れてしまうのだ。そう、人の中に居ると、忘れてしまう。

 

 

 

忘れてしまうから、わたしは毎日思いだすようにしている。思い出せない時もあるけれど、それでも思いだすためのチューニングは欠かさない。時に旅行へ行ったり、普段会わない人と合うのもそのひとつ。

 

 

 

何より、ひとりで過ごす時間はチューニングには欠かせない。思うに軸やあり方は、とてもブレやすく常に強固にあるものではない。だから、毎日チューニングしてどこに据えるか確かめる。ギターを弾くように自分の音階を確かめる。

 

 

 

とはいえ、受け容れ難いものもある。その時は、受け容れられないのだな、とわかればひとまずココロの波風は収まる。あとはまたゆっくりチューニングすればいいのでね。

 

 

 

わたしは自分の名前が好きではない。なぜこの漢字でこのよみがななのか。自分と合っていない、いっそ改名したいと思うくらい違和感が強かった。今でも好きか?と問われたら否だ。でも。どういうわけか、このところ漢字もよみがなも自分そのもののように感じるようになってきた。

 

 

 

わたしの名前は易者がつけたと聞いている。名をつけられた時の願いや想いに近づいたからそう感じるのか、それはわからないけれど。そもそも何を願われたのかわからないし、確かめる必要もないと思っている。いろいろな経験を通して”借り物”が”ホンモノ”になったのかもしれない。

 

 

 

最後は話が飛んでしまったけれど、一連のできごとからふと感じたことなので書き留めた次第。