わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)49

 

 

思考は常に変化する。だが変わらないものもある。わたしが何を大切にしたいのか。だ。これだけは一貫していると自分で感じている。職場でのできごとはいつもそれを意識させる。譲れないものだと。

 

 

それを感じれば感じるほど、もう雇われたくないと強く思う。会社として譲れないものと自分のそれが一致していればいいが、そういうことはだいたい少ない。

 

 

慣習的になっていることに異を唱えることのできない環境は、会社だけでなく自分もそれを良しとしてしまっているからあるのだと思い知らされた。そしてその現実に打ちのめされた。さてどうしよう。

 

 

自分ごときが立場もわきまえずそれを行って良いものか?と思案するのは、それを理由に行うのをやめようとしているのではないか?と疑問に思う。その環境を変えるのは、エネルギーが必要。また、自分ひとりで動かせるものでもない。

 

 

自分ひとりでやろうとしていることが不安なのか?恐れがあるのか?初めはひとりでも、そのうち賛同者が現れるかもしれない。それよりも、そこにエネルギーを費やしたいのだろうか?長らくワンマン経営で、変革は容易でないことは明らか。

 

 

また、それを聞き入れるような柔軟性を持ち合わせているように見えない。過去の出来事から照らし合わせて。最大の抵抗勢力だ。そこにわたしは何を求めているのだろう。勝手な期待な気がするし、ただぶつけるのが怖いだけかもしれない。

 

 

どこかで線を引くことは必要だと思う。自分ができることをやりきってなおそのままだというなら、それは仕方のないことだ。だからやりきったか、納得できるところまで進めたか? それがわたしには大切。

 

 

立場云々関係なく、それを行いたいならそう行動している。それをためらうのは、それを望まない自分がいるからだと思う。だったら自分の裁量で動けるところへ身を移すほうが遥かに使用するエネルギーが少ないし、気持ちもラクだ。

 

 

可能性を見いだせない自分を責めてもどうにもならない。可能性を信じたい自分が、見いだせない自分を責めている。見いだせないならそれでいいじゃないか。自分がベストを尽くしてそう答えを出したのなら、そこにとどまる必要はない。

 

 

可能性を信じたい自分、見いだせない自分、双方を労って先へ進もう。猶予は1年ある。それまでによく考えて行動すればいい。