わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

よもやま話(その時感じたこと・思ったことをつらつらと)50

 

 

さて今日は何を書こうか。契約更新の話は未だない。気にしているのはわたしだけかもしれないね。更新しないならそれはそれでいい。でも有無は前もって知らせてほしいかな。前回の記事の最後、自分の中のせめぎ合いに気づいて「つらいね」と認めたらそれまでのもやもやがすっとおさまった。

 

 

わたしはただ、わたしに認めてほしいのだと。たったそれだけのことだった。いつもそこに気づくまでに色んな過程がある。気づくにはその過程は必要なのだろう。そうしたら、今の与えられた環境の中で精一杯自分にできることを尽くせばいいと答えが出る。

 

 

仕事を変えるとか、環境を変えるとか、そういうことじゃないんだな。周りからの情報に過敏に反応するのはもうどうしようものない。生まれ持った性質だ。刺激の強い情報を遮断するのはわたしには当然の防衛反応である。

 

 

人間関係で損をするとかそんなこと気にしていたら、わたしは疲弊してしまう。本末転倒。NoはNoでいい。誰がゆるさなくても、わたしがゆるす。

 

 

昨日からキューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」を読み始めた。ずっと前に買って、途中で読むのをやめてしまった。今なら最後まで読める気がした。いざ読み始めたら、自分の中で文章をゆっくり味わう必要があることに気づいた。深い刺激を与える内容だ。時間をかけて咀嚼したいと思った。

 

 

少し読み進めただけで、休憩したくなった。一気に読み進めることは難しい。認めたくない何かを感じているようにも思う。でも、最後まで読んだなら。少しづつでも読もう。

 

 

マザー・テレサは「皆愛に飢えている」と言った。彼女も飢えていたのだろうか?会社の倉庫にずっと放置されていた廃棄処分が必要なものの処理の手続きを成り行きで請負った。状態を確認するため、倉庫から持ってきてもらったらなんとも切ない状態だった。

 

 

会社のあり方をそこに見て、粗末にされた自分を見た。処分の手続きをわたしが引き受けることになったのは、必然かもしれない。最後に愛を与える役目を与えられたのだろう。どのくらい放置されていたのか知る由もないが、事業のために尽くしたそのモノたちにありがとうが言えるのだ。誉、である。

 

 

昨日、オレンジマーマレードジャムを作った。初めてだったが、わたし好みの味になって満足。オレンジは普段食べない。頂いたものの、どうしようか考えた末ジャムにすることにした。ジャムなら食べるから。よかった。

 

 

そういうことの重なりが、わたしを形づくっている。