わたしがわたしへ贈るしあわせレシピ

日々の感じたこと・思ったことを書きつらねています

背負う覚悟

 

 

朝方、警報が鳴っていました。夢うつつ状態だったのですが、確かに聞こえました。ずっと雨が降っていて、時に激しく降っていたので川の水かさが増したのでしょう。雨のおかげか、残暑厳しい時期にしては珍しく涼しい朝となっています。

 

 

 

 

人の中に居ると色々と刺激を受けて、ゆらぐ。とこのところ感じます。ゆらがないように在りたいといつも思いますが、長年培ったものを変えるには苦労します。けれど、ゆらぐからわかることもあるなぁとも感じます。だからゆらぐことにジャッジはいらないのでしょう。

 

 

 

どうしても何かに対してジャッジをしてしまう。またそのことに気づいてそれをジャッジする。そんなループがあります。たとえば、お賽銭をいれるとき。頭では適当に手にしたものを入れればいいと考えるのですが、いざ手にしたものを見るとためらう。

 

 

 

ちょっと額が多くない?と手を引っ込める。そこでわたしは自分の欲に気づきます。そして浅ましいな、とジャッジしているのです。どこかで無欲であらねばならぬと思いこんでいるように感じます。

 

 

 

欲はわたしと共にあるものです。否定しても仕方のないこと。でもわたしの中の「あらねばならぬ」がそれをゆるさない。否定しろと言ってきます。外見は穏やかに見えても、わたしの中は激しい闘いなのかもしれません。闘わなくていいものと闘っているのだとほんとは知っています。

 

 

 

受け容れる、ゆるすって難しいです。でも、難しいからと何もしないのは自分に対する怠慢のように思います。どうすれば自分をゆるせるのかと考えをめぐらせれば、ただ自分を労ることだったりするのです。

 

 

 

 

わたしは自分が傷ついていることに鈍感なので、気づくのがいつも遅いのです。そして傷つく自分が心地よいのかもしれません。あれこれこうして考えてみますが、結局はわたしがどうしたいのか、なのです。

 

 

 

 

わたしはすぐに答えを出そうとしますが、出ないのなら出るまで待とう。出ないのならそれは時期じゃないから。ゆっくり考えたいのかもしれないし、答えをだすには経験が必要なのかもしれないし、答えを出したくないのかもしれない。

 

 

 

 

振り返ればいつも闘いが起こっているわけじゃない。凪いだ水面のような状態だってあります。どんな時もわたしの内側にある灯火が行き先をちゃんと照らしているから、嵐があろうと月夜だろうと、ギラギラ太陽であろうと。

 

 

 

 

だから答えがわからなくても、進もう。進めばわかる。弱音も否定もぜんぶ背負って行こう。そっか、背負う覚悟が必要だったんだね。なぁーんだ。